2002年12月28日土曜日

西論風発:田中さん人気 「癒やし系」と言わないで

 〇掲載年月日 2002年12月28日 

 西論風発:田中さん人気 「癒やし系」と言わないで=池田知隆・論説委員 

  

  「サカナ、サカナ、サカナ……」と、師走のスーパーの魚売り場で「おさかな天国」の歌がにぎやかに流れている。2002年、巷(ちまた)では「タナカ、タナカ、タナカ……」とばかりに「田中さんの風」が吹き続けた。

 小泉内閣の目になった田中真紀子旋風に始まり、公共事業依存からの脱却を訴えた長野県の田中康夫知事、日朝国交正常化の道を開いた外務省の田中均・外務審議官と続く。そして台風にまでなったのが、ノーベル化学賞を受賞した無名のサラリーマン、田中耕一さんだ。

 長引く不況をよそに今年は、政治、経済、外交をめぐる混乱で世の中が過熱気味だった。その後半にヒーローに躍り出た田中さんは、社会の裏方ともいえる地味な技術者だった。世界的な業績は別にして、その謙虚で、誠実な人柄は多くの日本人にある種の安らぎを感じさせ、「癒やし系」ともいわれた。

 この人気の秘密は何なのか。横浜の川に出没しているアゴヒゲアザラシ「タマちゃん」のように突然、降ってわいたような人々の熱い注目にも、自分を見失うことはない。あくまでも自分のペースを守ろうとする姿勢が共感を呼んでいるようだ。

 テレビの画面では、目立ったらいい、とばかりに文化人やタレントが大声をあげている。深刻な問題も、さらりとちゃかし軽いノリで流されがちだ。そんな情報の洪水にいらだっていた人たちも、田中さんの素朴な言動にひかれたのだろう。

 地道に働くこと、職場の環境に感謝し、同僚を大切にすること、創意工夫をすること。いつの世も、そこから社会への信頼が生まれる。それがいつしか忘れ去られようとしていないか、とさえ気づかせてくれた。

 先行き不透明な日本社会だが、地道にすがすがしく生きている人はたくさんいる。丹念に歩き、目をこらして見、耳を澄ませば、そんな人とすぐに出会えるはずだ。だけど、そのような真摯(しんし)な生き方や人情味あふれる失敗談を「癒やし系」と揶揄(やゆ)してしまう風潮は、どこかおかしい。

 「癒やし」には、心の苦しみを解消し、人間をまるごと健やかな状態にするという響きがある。その一方、自らは何も働きかけずに慰めてもらい、消費だけしようという感じもある。田中さんを「癒やし系」と言ってのけることで、何か大切なものを見失ってはいないだろうか。

 しかめっ面して言う気はさらさらないが、田中さんを「癒やし系」と見なすのはやめよう。年越しを迎え今一度、田中さんからもらった元気の素(もと)を見つめ、暮らしを考える糧にしたい。

 

2002年12月8日日曜日

西論風発:技術者教育 失敗から学ぶ楽しさを

 


〇掲載年月日 2002年12月08日 

 西論風発:技術者教育 失敗から学ぶ楽しさを=池田知隆・論説委員 

  

  「無名のサラリーマン」だった田中耕一さんに10日(日本時間11日未明)、ノーベル化学賞の金メダルが授与される。NHK番組「プロジェクトX―挑戦者たち」では、これまで裏方にいた技術者の仕事に日が当てられている。科学技術立国を支える技術者たちがやっと正当に評価されるようになった。

 ここ数日、NHKテレビで深夜に放映されたロボコン地方大会の模様を楽しんだ(全国大会は20日放映)。ロボコンとは、「アイデア対決・ロボットコンテスト」。全国の高専(5年制の高等専門学校)の学生たちが、既成概念にとらわれず、自らの頭と手でロボットを作り、その発想力と独創力を競う催しだ。15年目の今年のテーマは「プロジェクト BOX」だった。

 ゲームに勝ったり負けたりしながら、学生たちは喜びの雄叫(おたけ)びをあげたり、泣きじゃくっていた。「勝ったマシンには力がある。負けたマシンには夢がある!」。応援しているうちに、ほんの一時期、技術者への夢を描き、高専を卒業した私の体にも旋盤実習や電気実験で苦闘した楽しさがよみがえってきた。

 ロボコンには、喜怒哀楽があるという。ここには、懸命に物作りに挑むときに流す汗や涙がある。自分の頭で考え、自分の手で作ったもので遊ぶ、という当たり前のことが、観客にも深い感動を呼び起こしている。

 だが、そののびやかな発想、独創性をどのように育てていけばいいのだろうか。新学習指導要領の実施に伴って「学力低下」への不安が高まっている。だが、もっと心配なのは「学習意欲の低下」のほうではないか。野原で夢中で遊んだ体験、創造する楽しみ、それは子供にも日本社会にも大切な宝物なのだ。

 中国などアジア各国の台頭で、日本国内の製造業が地盤沈下で苦しんでいる。理工系学部の卒業生の就職先は、首位が製造業からサービス業に転じた。日本の技術の空洞化現象も指摘されているが、ロボコンを見る限りまだまだ希望はある。

 田中さんは「小学校時代の先生が自由に発想することを尊重してくれた」と語り、受賞対象の発見も失敗の産物だ。子供たちの「理科離れ」を嘆くより、無味乾燥な理科教育を充実させてほしい。理科が得意な先生は意外と少ないのが現実だ。

 IT(情報技術)不況で多くの技術者がリストラにさらされている。その人たちをできる限り学校で受け止めて、理科教育に活躍してもらう手立てはないものだろうか。学校で今、失敗することの大切さと苦さを学ぶ場があってもいいはずだ。

 

2002年10月19日土曜日

西論風発:総合学習 学校システムこそ 改革を

  

〇掲載年月日 2002年10月19日 

  

〇掲載年月日 2002年10月19日 

西論風発:総合学習 学校システムこそ 改革を=池田知隆・論説委員 

  

  いつしか「ゆとり教育」は教育荒廃の元凶にされ、子供たちの学力低下をめぐって親たちの不安が高まっている。だが、旧来の教育内容に戻すことで、学力を回復できるのか。

 <総合学習で、中途半端な疑似体験をさせるよりも、読み、書き、計算の学習力をつける方がはるかに有用である。>

 13日の「西論風発」欄でそんな指摘があった。といって、総合学習をあっさりと切り捨てていいのだろうか。否である。学力低下の背景には、大人を含めた深刻な「活字離れ」や、享楽的な消費社会下の「学びからの逃避」の問題がある。

 学校5日制、教育内容の削減による学力低下の声に、文部科学省は「ゆとりは“ゆるみ”ではない」「指導要領は最低限の基準」と説明し、もっぱら「確かな学力」「学力の向上」を強調している。基礎力の徹底が大切なことは論をまたない。だが、その基礎力の上で創造力や学習意欲の育成もまた欠かせない。

 文科省の肩をもつ気はないが、今、あらゆる価値が相対化し、誰もが自分なりの生き方を模索しなければならない不透明な社会であることは確かだ。その中で生きぬくために、表現力や思考力などの「新しい学力」は必然的な課題になっている。

 総合学習は、自ら課題を見つけ、解決していく力をつけるために設けられた。図書館を活用して「調べる」学習をしたり、地域の人材を生かした映画製作や演劇、自然観察などの多彩な授業や職場体験、人間関係づくりなどが行われている。

 だが、教師にとっても慣れないことばかりだ。総合学習の理想はいいが、現実は思ったとおりにはいかない。その成果はすぐに表れない。テストもできないから子供が何を得たのかも見えづらい。まして高校入試にも大学入試にも出題されない。

 多くの親たちは、いい学校に進学できる学力をつけてほしいと願っている。総合学習という遊びの時間も、土曜日の休みもいらない。それだから公立校は私立校に負けるのだ、と親が思うのも理解できる。同時に、知識量だけでなく、問題解決能力などがないと社会を生きれないことも親は分かっている。

 問題は、総合学習にあるのではない。明治以来、人材の選別機能を果たしてきた学校・教育システムにある。それを見直さない限り、総合学習は宙に浮いてしまいかねない。私学助成と公立支援のあり方や、大学教育を含めた大幅な改革を考えていくべきだろう。新しい酒(学習指導要領)には新しい皮袋(学校システム)が必要だ。=池田知隆・論説委員 

  

  いつしか「ゆとり教育」は教育荒廃の元凶にされ、子供たちの学力低下をめぐって親たちの不安が高まっている。だが、旧来の教育内容に戻すことで、学力を回復できるのか。

 <総合学習で、中途半端な疑似体験をさせるよりも、読み、書き、計算の学習力をつける方がはるかに有用である。>

 13日の「西論風発」欄でそんな指摘があった。といって、総合学習をあっさりと切り捨てていいのだろうか。否である。学力低下の背景には、大人を含めた深刻な「活字離れ」や、享楽的な消費社会下の「学びからの逃避」の問題がある。

 学校5日制、教育内容の削減による学力低下の声に、文部科学省は「ゆとりは“ゆるみ”ではない」「指導要領は最低限の基準」と説明し、もっぱら「確かな学力」「学力の向上」を強調している。基礎力の徹底が大切なことは論をまたない。だが、その基礎力の上で創造力や学習意欲の育成もまた欠かせない。

 文科省の肩をもつ気はないが、今、あらゆる価値が相対化し、誰もが自分なりの生き方を模索しなければならない不透明な社会であることは確かだ。その中で生きぬくために、表現力や思考力などの「新しい学力」は必然的な課題になっている。

 総合学習は、自ら課題を見つけ、解決していく力をつけるために設けられた。図書館を活用して「調べる」学習をしたり、地域の人材を生かした映画製作や演劇、自然観察などの多彩な授業や職場体験、人間関係づくりなどが行われている。

 だが、教師にとっても慣れないことばかりだ。総合学習の理想はいいが、現実は思ったとおりにはいかない。その成果はすぐに表れない。テストもできないから子供が何を得たのかも見えづらい。まして高校入試にも大学入試にも出題されない。

 多くの親たちは、いい学校に進学できる学力をつけてほしいと願っている。総合学習という遊びの時間も、土曜日の休みもいらない。それだから公立校は私立校に負けるのだ、と親が思うのも理解できる。同時に、知識量だけでなく、問題解決能力などがないと社会を生きれないことも親は分かっている。

 問題は、総合学習にあるのではない。明治以来、人材の選別機能を果たしてきた学校・教育システムにある。それを見直さない限り、総合学習は宙に浮いてしまいかねない。私学助成と公立支援のあり方や、大学教育を含めた大幅な改革を考えていくべきだろう。新しい酒(学習指導要領)には新しい皮袋(学校システム)が必要だ。

2002年10月12日土曜日

西論風発:国立国会図書館関西館 世界への“知的発信拠点”に

  

〇掲載年月日 2002年10月12日 

 西論風発:国立国会図書館関西館 世界への“知的発信拠点”に=池田知隆・論説委員 

  

  「真理がわれらを自由にする」。国立国会図書館法の前文でうたわれている精神だ。その確信に立って、「憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される」とある。

 国立国会図書館関西館(京都府精華町)が7日開館した。インターネットが普及し、今では「どこでも、いつでも、だれでも」アクセスできる巨大な情報空間が出現した。電子図書館機能を飛躍的に高めた関西館を通して、世界平和に寄与する大図書館の使命を再認識しよう。

 国立国会図書館は1948年に創設された。新憲法下の代議制を支える「国会図書館」として構想され、国民全体に図書や資料を保存、提供する「国立図書館」の要素が加わった。

 今後、東京本館が「議会図書館」として、関西館が「中央電子図書館」としての役割に特化する。来年1月からは各家庭のパソコンからアクセスし、資料のコピーをオンラインで請求できる(利用者登録制)が始まり、その「遠隔利用サービス」も関西館が一手に引き受ける。

 関西館の収蔵能力は約600万冊(第1期分)だが、将来は約2000万冊まで拡大でき、東京本館(約1200万冊)を上回る。アメリカの議会図書館がつくる「アメリカの記憶」コレクションでは映像、音、写真などの徹底した資料の蓄積を図っている。国立国会図書館もまた、「日本の記憶」装置としての役割を果たすべきだろう。

 関西館は、「21世紀に迎える危機を克服し、人類の幸福に貢献する」ために研究を重ねる「関西文化学術研究都市」の一角にある。それだけに科学技術関係のほか、アジア関係の資料を重点的に収蔵し、閲覧室で約5万冊の資料を開架する。

 アジアの文献センターとしての情報発信機能を高めるためにホームページは英語版のほか、中国語や朝鮮語による利用案内なども充実させてほしい。ここは世界の人々に日本への理解を深めてもらう「窓」でもある。

 エジプトでは約2000年前、世界最大といわれた図書館の再現に向けてアレキサンドリア図書館がこのほど完成した。ここの最大の特徴は、当時の文化交流の中心であったように各種国際会議やイベントを通して世界中の文化・学術交流の拠点にすることだという。

 新時代の図書館は、文明の衝突を乗り越え、民族、宗教間の相互理解を深めるための役割を担っている。私たちも、関西館を、日化を発信し、多文化理解の「知的拠点」として活用し、育てていきたい。

2002年9月14日土曜日

西論風発:スローライフ 「粋」の精神を見直そう

 


〇掲載年月日 2002年09月14日 

 西論風発:スローライフ 「粋」の精神を見直そう=池田知隆・論説委員 

  

  長引く不況、雇用不安の中で、「豊かさ」をめぐる日本人の意識は少しずつ変容している。その一端は、スピードよりも、暮らしのゆとりや質を追求する「スローライフ」という言葉の広がりにも見てとれる。

 それを街づくりの柱にすえる自治体も現れた。今年1月、静岡県掛川市は全国初の「スローライフシティ」を宣言した。11月をスローライフ月間として多彩なイベントを展開し、全国的な社会運動にするために「スローライフのまち連合」の結成を目指している。

 スローライフは、ハンバーガーなどのファストフードのように世界的な規模で拡大する食の均一化に対し、地域の伝統的な食材をゆっくりと味わおうというスローフードの思想に由来する。これからの暮らしのあり方を見つめ、新しい社会を考えるヒントを「スロー」という言葉に見いだそうというのだ。

 掛川市の宣言には、スローエデュケーション(生涯学習、総合学習、ゆとり)の言葉もあり、79年に全国に先駆けて宣言した「生涯学習都市」の延長線上に位置づけているようだ。スローペース(自動車文明から歩行文化へ)、スローエイジング(美しく老いる、寝たきりゼロ)……と、地域づくりの柱が並んでいる。

 岐阜市も8月、「日本一元気な県都づくり事業策定方針」を発表した。車社会脱却を目指した「スローライフな都市づくり」を念頭に、歩く文化の創出、環境に配慮した施策――などを掲げている。

 これからの日本の社会では、かつてのような高度経済成長はもはや望めない。少子高齢化が進む中、明確に地域づくりのイメージを打ち出している両市の姿勢に共感を覚える。

 江戸中期には、農業生産が限界に達したため約100年間、人口が減少し、当時の環境に見合った“足るを知る”社会が形成されたという。江戸後期になると、「粋(いき)」という美意識が広がった。欲望のままになるのは「野暮(やぼ)」だとして、よりカッコよく生きようという心意気だ。

 南アフリカで先日開かれた「環境・開発サミット」の論議を見ても、持続可能な社会の行方は、何よりも生活を変えていく市民の力量にかかっている。「もっと、もっと」と欲望を満たそうとするより、ちょっと足りない状態でいかにバランスを保っていくかが問われている。

 「食」は「人を良くする」と書くではないか。そんなふうに食や暮らしの質を見つめ、「粋」の精神をながら魅力的な地域社会を考えたい。

2002年8月31日土曜日

西論風発:医療不信 患者図書館を普及させよう

 〇掲載年月日 2002年08月31日 

 西論風発:医療不信 患者図書館を普及させよう=池田知隆・論説委員 

  

  日本社会のいたるところでモラルハザード(倫理観の欠如)が表面化しているが、医療機関も例外ではない。東京女子医大の事件では、亡くなった患者の遺族側が手術に疑問をもったことを知るや、大学病院側がカルテを改ざんした。「やはり」というか、「いまだに」というべきか、医療界には特権意識が根強くはびこっている。

 カルテの開示、がんの告知、インフォームド・コンセント(十分な説明と同意)など、自らの病気について患者の「知る権利」が叫ばれて久しい。高度化していく医療について“情報弱者”になりがちな患者にどこまで情報提供ができるのか。それこそが医師と患者の信頼を築いていく上での前提になる。

 そのことを考えるうえで一つの参考になるのが、「病院患者図書館」の動きだ。

 関西では、京都南病院(京都市下京区)の患者図書館活動が知られている。病院内の図書室が患者や地域住民に開放され、全国に先駆けて1997年に患者にも医学書を公開した。「どんな病気で、どんな治療法があるのだろうか」。自分や家族の病気を詳しく調べたいという患者の願いに応えるためだ。

 図書室には、一般書など約2万冊のほか医学書約1万冊がある。さらに必要なものは公共図書館、大学医学図書館から取り寄せている。「同じ病名でも病状や治療方法は一人一人違う。その点を十分に理解してもらいながら情報提供している」と司書、山室真知子さんは語る。

 専門的な医学書を公開しているのは現在、国立長野病院(長野県)、東京大学付属病院や健康保険組合連合会大阪中央病院など約10カ所を数える。

 医療法では、総合病院に図書室を設けることが義務づけられている。だが、多くは医師の詰める医局に付属し、患者は専門書や医学雑誌を閲覧できない。

 一方で、患者が病気や治療法について別の医師に意見を聞く「セカンド・オピニオン」への関心が高まるばかりだ。書物からの情報も、患者が治療法を自己決定するためのオピニオンの一つとして位置づけられる。

 どの病院も経営が厳しく、実際に患者図書館を設けるには多くの課題があるだろう。しかし、これからの時代には患者サービスを、医療の質を患者本位に改善していかないと、病院も生き残るのは難しい。

 医療情報の提供をめぐって医師はまず、患者に寄り添うように接してもらいたい。大学病院などの大きな医療施設では、患者図書館の開設に率先して取り組んでほしい。

2002年6月23日日曜日

西論風発:W杯教育論 文化人校長を登用しよう

 〇掲載年月日 2002年06月23日 

 西論風発:W杯教育論 文化人校長を登用しよう=池田知隆・論説委員 

  

  「やはり日本(韓国も同じかな?)は、グローバル化されたゲーム(市場)には、外国人の監督(経営者)をもってこないと、勝ち抜けない」

 サッカー・ワールドカップ(W杯)でフランス人監督、トルシエ氏が率いた日本代表の活躍に、友人の外資系証券会社副会長からそんなメールが届いた。

 「日産のゴーン社長の例もあるが、欧州系の経営者がいい。相手国の文化に敬意を払いながら、士気をあげることができる。米国系は自己本位で、自国流の押し付けになりがちだから駄目だ」とも、語っていた。「みずほ銀行という巨大な新組織にリーダーはいなかったね。あれではシステム障害を起こすよ」

 なるほど、日本の社会はシステム障害に陥ってるのかもしれない。今の日本に必要で、かつ決定的に欠けているのは、世界を相手に勝負するリーダーであり、監督(経営者)のようだ。

 その一方で、日本人の選手(従業員)の資質が決して悪くないこともはっきりした。ラグビーなど体力差が歴然と出る競技は別にして、スピードや技術力で戦えるゲームはいける。大リーグでは、イチローも野茂も石井も大健闘している。

 世界で“志”を果たす若者をどう育て、日本社会でどう生かしていくのか。その議論は、日本の教育の課題にいきつく。

 「いつも寝ている猫」「海に漂っているクラゲ」、そして「私は貝になりたい」――。教師たちが「生まれ変わった時、何になりたいか」と聞かれて、とっさに口に出たのがそれだった。「教師のためのお笑い実践セミナー」の取材で見た一コマだ。

 「面白い先生になって、笑いの絶えない明るい教室にしたい」と言いながらも、多くの教師たちは疲れていた。「生まれ変わったら、お笑い芸人のような人気者になりたい」との返答もあったが、笑ってばかりではすまされないのが学校の現実だ。

 そんな学校を再生させるためにリーダー(校長)を外部から積極的に迎えてほしい。同時に中田英寿選手のように、生徒の個性を引き出すために絶妙のパスを送る“MF(ミッドフィールダー)教師”を育成していくべきだろう。時代の変化に応じた教育システムづくりが大切だ。

 最近、企業人を校長に迎える動きが広がっている。だが、「何のために」という哲学をぬきに、やみくもに市場原理や効率化を導入しても、効果は薄い。企業人だけではなく、人間への深い理解力を備えた文化人も校長に登用すべきだ。W杯を通して見えた“人間再生術”を教育現場でも生かしてほしい。

 

2002年6月2日日曜日

西論風発:入学金・授業料返還 大学は経営モラル見直せ

 〇掲載年月日 2002年06月02日 

 西論風発:入学金・授業料返還 大学は経営モラル見直せ=池田知隆・論説委員 

  

  私立大学に前納した入学金や授業料が、入学辞退しても返還されないのは、昨春施行された消費者契約法違反ではないか。こう訴えて大阪の弁護士たちが「ぼったくり入学金・授業料返還弁護団」を結成した。今月末に41大学、19専門学校を提訴するが、この動きを支持したい。

 現在、大半の私大が「いったん納めた学費は返還しない」との入試要項をタテに入学辞退者への学費返還に応じていない。だが、「受験生の不安な心理につけこみ、大学は暴利を得ている」との批判が高まっている。

 先日、弁護士らが開いた「ぼったくり入学金・授業料110番」に寄せられた相談は約400件。その中には医学部を3校受験し、入学辞退した2校分で約1400万円の授業料などを支払ったケースもあった。

 最近は特に、少子化で推薦入試枠による「青田買い」傾向が進み、12月から入学金、授業料、施設費を一括納付させる私大が多い。文科省では来年度入試で「(大学納付金を)合格発表後、短期間内に納入させるような取り扱いは避けるなどの配慮」を一般入試だけではなく、推薦入試にも私大側に求めている。

 これまで授業料の納付期限をめぐって、旧文部省は75年に「入学式の2週間前以降」との大学局長通知を出し、多くの私大がそれに沿ってきた。文科省は、来年度の入試要項からさらに「学費を返還しない」との条項の削除も要請する。

 このような動きに対応して龍谷大学(京都市)は、今年度実施の全入試(13種)から、3月末(4月入学時)までは入学金(20万円)を除いて返還申請ができるようにする。他の大学もこれに続き、率先して「タダ取り」批判に答えてほしい。

 入学金を返還対象から除外するのも、本来はおかしな話だ。消費者契約法では、契約の取り消し料や違約金は、実際の損害額を超えてはならない、とある。入学しないのに、多額の入学金をとる理由は見当たらない。

 受験生が殺到した入試バブル期は過ぎ、大学は学生から選ばれる側に回った。大学が魅力ある教育・研究機関として生き延びるためには、経営内容を自浄しなくてはならない。書生論と言われかねないが、大学は、実際に学ぶ学生の授業料と公的補助、寄付で経営するのが常道だ。建学の精神を踏まえて、大学への寄付を求めやすくする手立てを考えていくべきだろう。

 大学経営は、教育への強い意思と情熱によってこそ支えられる。そのような教育的な原点から、大学の経営モラルを今一度、見つめ直してほしい。


2002年5月4日土曜日

西論風発:心の健康 冒険教育のススメ

 〇掲載年月日 2002年05月04日 

 西論風発:心の健康 冒険教育のススメ=池田知隆・論説委員 

  

  未知の世界へ勇気をもって一歩を踏み出したとき、一回り大きな自分に出会える。冒険は、生き生きとした自由な自分の心を見つめ、他人の温かい情けに触れる旅でもある。そのような体験を教育の場で生かそうという「冒険教育」が今、教育関係者の注目を集めている。

 「いらいらしたり、むしゃくしゃしたりすることが日常的によくある」子は約2割、と「国民の健康・スポーツに関する調査」(98年)にある。日の出や星空を見たことがない子が増え、外遊びの減少でコミュニケーション能力も低下している。人工的な環境に慣れ、体温調節も苦手だそうだ。

 そんな現代っ子の心身の変化を踏まえ、今春から導入された新学習指導要領で、小学校の保健の時間に「心の健康」の項目が加わった。対人関係の悩みや子供たちの不安に向き合いながら、社会性をはぐくもう、というのだ。だが、具体的にどう教育すればいいのか、戸惑っている学校も多い。

 「遊びも大事な教育だと理解してほしい」と、冒険教育の指導者、林寿夫さんは強調する。「授業中、質問することも、立派な冒険です。それまでの自分の評価がゼロになるというリスクにも挑戦するのですから。こんな『心の冒険』は、自然の中だけでなく、日常生活でいくらでも体験できます」

 冒険教育は、多様なゲームを通して、他者を信じて自分の命を預け、助け合うことのすばらしさを体験するプログラムだ。70年ごろ、集団カウンセリングの研究成果を取り入れ、米国の教師たちが始めた。

 例えば、仲間が支える何本かの棒の上を歩いて競う「人間はしご」では、互いを信頼することの大切さを学び、心を開くように工夫されている。そんなゲームの数は300を超える。

 宮城県は00年度から指定校で実施し、滋賀、広島、高知各県でも導入に意欲的だ。

 一人遊びのゲームが広がり、子供たちが直接、他者と向き合う機会が激減した。携帯電話の普及で、心を閉ざしてうわべだけの人間関係をもつ傾向が強い。だけど、都市化に伴って、人間としての生活感覚「五感」を喪失してはいないのだろうか。

 教育とは、白紙の子供に知識を与えることだと思いがちだが、子供が持っているものを引き出すことでもある。そう思えば、「生きる力」をはぐくむ精神的な“仕掛け”として、冒険をもっとてもいい。

 明日は「こどもの日」。子供たちとのつきあい方を見つめ直す日にしてはいかが。

 

2002年4月7日日曜日

西論風発:新学習指導要領 “立体的”な国語教育を

 〇掲載年月日 2002年04月07日 

 西論風発:新学習指導要領 “立体的”な国語教育を=論説委員・池田知隆 

  

  「情けは人のためならず」の意味が、日本人の半分に誤解されている――。文化庁の「国語世論調査」でこんな結果がでた。字面にとらわれると、誰でも誤解しがちだから、さして驚くことではないかもしれない。しかし、正確かつ美しい言葉の継承は、次の世代への重要な責任の一つであることに違いない。

 4月、新しい学習指導要領が導入された。学習時間数や内容の大幅削減で、学力低下への不安の声が高まっている。教育改革の目玉の「総合学習」も、どのように取り組んでいいのか、戸惑っている学校がまだ多い。

 だが、迷ったら、「読み書きそろばん」という学習の基本に戻ることだ。学力低下を心配するあまり、従来のような平板な詰め込みの授業を復活させてもだめだ。頭だけではなく、身体感覚を生かした“立体的”な学習を工夫するべきではないか。

 ベストセラー「声に出して読みたい日本語」の著者、斎藤孝・明治大助教授は「日本語の名文を暗唱することで、“強いあご”を育てよう」と提唱している。「コメント力、段取り力、まねる力。学習では、この三つの力が大事」だそうだ。

 公立学校では珍しい演劇科のある兵庫県立宝塚北高の卒業文集を読むと、多くの生徒が「自分を好きになった。生きていることが楽しく思える」と語っている。自分を発、心を開いていくドラマが、そこには鮮やかに描かれている。

 「3年間で心の贅(ぜい)肉が落ちた」と語る卒業生もいた。「本物の人間関係がつかめた。不器用でも、まっすぐ素直に生きたいという自分の道が分かった」

 ここでは、職業的な演劇人や俳優を養成するわけではない。発声や日本語の語り方、呼吸法など身体表現の基礎を学び、美しい動作や表現力を身に着け、人間の理解を深めるのが目的だ。さまざまな「遊び」を取り入れ、音楽と体育を使った“立体的な国語教育”を柱にしている。感情表現の技術を身に着ける演劇の教育的な力をたい。

 今年2月、中央教育審議会が「新しい時代における教養教育」についての答申で、「国語教育や読書指導の重視」を打ち出した。文化審議会でも「これからの時代に求められる国語力」について審議中だ。

 21世紀は、知識や情報が社会を動かす「知識社会」といわれる。膨大な情報の海で生きていくには、「基本のき」としての国語力の養成が重要だ。

 「情けは自分のためになる」と、実感しながら学べる場が大切だ。言葉に生気を吹き込む教育こそ今、求められている。

2002年3月23日土曜日

西論風発:葬祭ビジネス 「悲しみ」をもてあそぶな

 〇掲載年月日 2002年03月23日 

 西論風発:葬祭ビジネス 「悲しみ」をもてあそぶな=池田知隆・論説委員 

  

  「目の前に春が見えてきました。希望と自然の芽吹きがいっぱいのときに不躾(ぶしつけ)ですが……」。そんな書き出しの手紙が、遠くにいる友人から届いた。読み進み、「私の人生の幕を少し早めに下ろさざるを得なくなりました」とのくだりに胸を突かれる思いがした。突然に「末期がん」と宣告され、緩和ケア病棟(ホスピス)にいる、とあった。

 死にゆく友にどのように寄り添えるのか。いつものことながら、立ちすくんでしまう。

 家族が死に直面したときの悲しみ。精神的な混乱。そんな中であわただしく進められる葬儀をめぐる不祥事が最近、相次いで表面化している。

 自治体の斎場で慣例化していた市職員への「心づけ」。葬祭業者も、遺族に紹介した寺院からお布施のリベートを受け取っていた。大学病院で葬祭業者が遺体解剖作業を手伝っていることにも驚かされた。

 地域の絆(きずな)が弱まり、核家族化が進み、葬祭業者に葬儀のすべてを依存することが多くなった。しかし、生活者の冷静な目でその現状を見たとき、理不尽なことが目立つ。

 よく葬式仏教という言葉で日本の仏教の現状が批判される。だが、今では僧侶が葬祭業界の論理に埋没し、何もかも業者任せのケースがある。葬儀で法話もしない僧も多い。宗教者でさえ悲しみの共感が薄らぎ、葬式仏教どころか、葬儀を形がい化させる役割を担っている。

 葬式費用は全国平均で226万円(99年、日本消費者協会調べ)。高齢化の進行で死亡者数は年々増加し、葬祭ビジネスは3兆円産業といわれる。ホテル、生協、電鉄会社など異業種からの参入も著しい。

 消費者と事業者との対等な関係をすすめる「消費者契約法」が施行されて1年。葬儀における消費者とは遺族のことだが、葬儀における消費者と事業者との情報格差は大きい。「料金の透明化」に向けて、葬祭ビジネスは生活者、消費者の立場への転換が求められている。

 だが、死の商品化の風潮をそのまま受けとめることはできない。葬儀が事務的に処理されていくようになれば、遺族の心の癒やしは望めない。日本人の宗教意識の根幹を揺るがしかねない葬儀ビジネスの推移をもっと注視すべきだろう。

 今、お彼岸の最中だ。生前契約、散骨、樹木葬、共同墓……と「あの世」への道は多様化してきた。さまざまな流儀で死と向き合える時代だ。開花した桜の下で死にゆく友を思い、今はただ、人々の悲しみをもてあそぶな、とだけ言っておきたい。


2002年2月17日日曜日

西論風発:地域再生 「関西学」を確立しよう

 〇掲載年月日 2002年02月17日 

 西論風発:地域再生 「関西学」を確立しよう=論説委員・池田知隆 

  

  「関西の敵は、東京ではない。関西それ自身です」

 第40回を迎えた先の「関西財界セミナー」で、経営コンサルタント、大前研一氏は断言した。相変わらず「関西再生」をテーマに掲げ、地盤沈下を嘆く論議にあきれ返った表情だった。

 「関西の地盤沈下は、1970年の大阪万博から始まる。花博から大阪オリンピックの招致と、いわば“お祭り”経済だ。一時的なにぎわいを求め、ふだんの経済努力をしていない」

 効率よく、短期間にもうける“お祭り”経済。万博景気の思い出にひたり、関西は“失われた30年”を過ごしてきた。一極集中が進む東京との格差は広がる一方だが、それも目先の成功に目がくらみ、安易な効率性をありがたがった結末なのだ。

 では、どうすればいいのか。ごく単純だが、足元を見つめることから始めるしかない。

 今、日本各地で公共投資や企業誘致など外部の力に頼らない新しい地域づくりの手法=「地元学」の動きが広がっている。都市圏の豊かさに目を向けた「ないものねだり」をやめ、地域の風土、文化、お金にあくせくしない生き方など多様な価値を見つめ、「あるもの探し」をしようというのだ。

 地元学を提唱した熊本県水俣市では、「水俣病」以来、不信と偏見が渦巻いた人々の心を結び直し、住民と行政の協働でコミュニティーの再生を目指している。補助金に依存せずに環境、農業、総合学習などに取り組み、各地から視察や修学旅行が相次いでいる。地元学協会事務局長で水俣市職員の吉本哲郎さんは「環境都市として世界的な環境賞を取りたい」と夢を語る。

 鳥取県は、県職員の給与カット分で今春にも少人数学級を導入するという。身銭を切りながら、地域の子供たちの育成にかかわっていこう、という姿勢に共感する。苦難を突き抜けた地方では、こんな自立的地域社会づくりが着実に進んでいる。

 欧米流の近代化を絶対的な尺度とすれば、他の文化は遅れたものにしか見えない。しかし、地域特有の自然や風土、歴史や固有の価値観をよりどころに、それぞれのスタイルでの発展が可能なはずだ。

 まずは「関西学」を確立しよう。もちろん、関西の豊かな歴史や文化を強調し、「お国自慢」するようではダメだが。

 関西圏では、どのような地域社会を形成していくのか。生活者優先の環境調和型の社会を目指すのか。その目標も方法論も、誰が組織するのかもはっきりしない現状で、「関西再生」をいくら叫んでも、うつろに響く。

 

2002年2月3日日曜日

西論風発:雪印食品問題 暮らしを見直す好機に

 〇掲載年月日 2002年02月03日 

 西論風発:雪印食品問題 暮らしを見直す好機に=池田知隆・論説委員 

  

  「非難する前に、ただただ悲しくなります」と、雪印食品問題で北海道の友人からメールが届いた。「雪印設立の経緯を知るだけに、食中毒事件以来、創業の原点に戻るという雪印を信じ、応援してきましたから」

 食中毒も、牛肉偽装も関西で表面化した。メールには「ひどい偏見を承知で言わせてもらえば、老獪(ろうかい)な関西の人よ、不器用で鈍重な北海道人の足を引っ張らないで」ともあった。北海道の人に複雑な感情をいだかせるほど関西は経済的に厳しい土地柄に見えたようだ。モラルハザード(倫理観の欠如)は何も関西に限ったことではないのだが。

 雪印乳業の創業者、黒沢酉蔵は、公害の原点といわれる足尾鉱毒事件を追及した田中正造の直弟子だ。渡良瀬川沿岸住民を救うために明治天皇へ直訴を図った正造に感動し、寝食を共にした。その後、牧夫生活を経て創設したのが北海道製酪販売組合(雪印乳業の前身)だった。

 雪印乳業のホームページに、事件の反省から「創業の精神である『健土健民』にたどりつきました」とある。「土」は大地の恵みである牛乳・乳製品を、「民」はお客、得意先、酪農家などを表している。いつしか精神的に離れてしまった「大地」に戻ろう、というのだ。

 世界を席巻する「ファストフード」に対して今、「スローフード」が注目を集めている。ゆっくり時間をかけて食事を楽しむだけではない。地域の伝統的な食材にこだわり、生産者との連携を深め、豊かな食文化を育てる運動で、1986年にイタリアの片田舎で始まった。

 スローといえば、スピードを重視するこれまでの社会では、否定的に受け止められがちだ。遅くて、効率が悪く、無駄が多い……と。しかし、社会がスローになると、地域や暮らしの姿がよく見える。そこから地域循環型社会に向けて、新しいライフスタイルを探る「スローライフ」への萌芽(ほうが)が出てきている。

 雪印食品問題で「食」への信頼が揺さぶられた。経済における倫理も根本から問われた。

 経済学の創始者といわれる「国富論」の著者、アダム・スミスは、もともと道徳哲学の教授だ。第一作「道徳感情論」では「自由競争ではあるが、自由放任ではない」と近代社会の原理を語っている。今一度、その経済の原点に立ち、「正義」とは何か、考えなくてはならない。

 バブルの崩壊という苦い教訓をどのように生かしていくのか。もっと地に足のついた経済とは何か。長い不況が続く今、ゆっくりと暮らしの在り方を見つめ直す好機としていきたい。