1994年4月28日木曜日

〇離散と情(1994年4月28日)

 〇離散と情(1994年4月28日)


 歴史を知れば、いまの現実を生き生きとつかみとれる。今春、中国の旧ユダヤ人街を訪ねた小岸昭・京大教授(独文学)の報告をワインを飲みながら聞く集まりで、そう思い知らされた。

 コロンブスが新大陸に到達した一四九二年、ユダヤ人(セファルディ)たちは追放令でスペインを追われた。欧州各地を流浪する中、強靭な思想、哲学、芸術を生んだユダヤ人の足跡を旅してきた小岸さんは、ユーラシア大陸をまたぎ、中国にたどりついた。

 第二次大戦の開戦前後、ユダヤ人たちは二つのルートで上海に流れてきた。一つは、ポーランドからシベリア、満州(中国東北部)経由で。もう一つはイタリアから日本船に乗って海路で。理由は、上海が当時、世界で唯一ビザなしで上陸できる都市だったからだ。映画「シンドラーのリスト」のシンドラーのように、ユダヤ人の上海移住計画に取り組む日本の軍人もいた。

 上海はいま、経済開発が進み、街が急激に変貌している。その背景にユダヤ人による経済協力があり、「ビザなし都市」の歴史への感謝の念が込められているという。ワインの芳醇な香りとともに、歴史と現実が織りなす壮大な物語にただただ酔いしれた。


1994年4月14日木曜日

〇知と愛(1994年4月14日)

 〇知と愛(1994年4月14日)



 その場に居合わせた喜びをしみじみと感じさせる集まりだった。十日、京都で開かれた故桑原武夫七回忌の公開講演会。新京都学派に連なる梅棹忠夫さんや梅原猛さんの"梅・梅対談"など超豪華な回想談が繰り広げられた。

 戦後、哲学者の鶴見俊輔さんは二十六歳の京都大学助教授として桑原さんに招かれ、「日本の学歴でいえば、小学校卒なのに」と感激した。フランス思想の講座でフランス語のできない助教授。「明晰な理論」を貴ぶ桑原さんとは違い、「曖昧さこそが重要で、混沌に返れ」と言っていた鶴見さんは、学風においては弟子でなかったと語る。

 二年後、うつ病で「自分の名を書くことがいや」になり、辞表を書いた。「君は病気です。休んで、だまって給料をとってればいい」と桑原さん。「そのとき辞めていれば、自殺したと思う」と鶴見さんは回想していた。

 「安全を願い、しかも対立する若者を恐れない」と鶴見さんが評した「母性」的精神。専門を超えた「共同研究」で多くの遺産を残した「知と愛」。会場周辺の満開の桜から漂ってくる、そんな桑原さんの精霊を十分に吸い込み、胸に刻もうと素直に思った。すてきな花見の一日だった。