2005年12月26日月曜日

〇Y君の就職(2005年12月26日)

 〇Y君の就職(2005年12月26日)  

  

 「母が亡くなった」。先日、九州に住む大学時代の級友、Y君から久しぶりに連絡があった。友人の参列を遠慮したようで、告別式は既に終えていた。

 裁判官の息子だった彼は、司法試験を目指し、浪人生活を続けているうちに、社会にでる機会を失った。裁判官を退職後、公証人になった父は亡くなり、最近は母の介護をしていた。

 兄弟も年金もない彼の老後がクラス仲間でよく話題になった。「みんなで共同別荘を持ち、管理人に招こうか。それには山より海の近くがいい」と年末、その候補地探しを始める矢先だった。

 だが、彼は「母の実家の焼酎会社社長をしているいとこが、うちで働かないかと言ってくれた」と喜んでいた。どうやらそのいとこが、お母さんを喜ばせようとしたようだ。それを聞き、お母さんは最後の胸のつかえをおろして亡くなった。いい話だった。

 定年前に退職する級友もいる。それとバトンタッチするかのように50代後半で初めて就職するY君。「何はともあれ、乾杯!」と共に飲みたい気分だ。


2005年11月25日金曜日

〇生命線(2005年11月25日)

 〇生命線(2005年11月25日) 

  

 「聖(ひじり)」とはもともと、「聴く力」をもつ人のことだろうか。「聖」の文字は、「耳」を「呈」すると書くではないか。人々の悩みや苦しみや悲しみ、命の叫びを聴くために、自分の耳を相手に差し出す人を指しているようだ。

 伊藤みどりさんも現代の「聖」といえるかもしれない。台湾語・北京語によるいのちの電話「関西生命線」(06・6441・9595)を大阪で開設し、今月で15周年を迎える。

 そのきっかけはふと目にした新聞だった。2日間連続で、台湾人ホステス4人が川に飛び込み、1人が死亡、という記事があった。「もし彼女たちの悩みを聞く1本の電話でもあれば、自殺を防げたかもしれない……」。台湾生まれの伊藤さんも日本人男性と結婚して来日し、日本語が分からず、悩み続けた。その体験から日本初の「生命線」を維持している。

 「受話器を通し、日本の社会がよく見える」と伊藤さんは言う。「関西生命線」の活動をどう支えていくのか。それは、関西という地域の外国人の声を「聴く力」を示している。

2005年10月28日金曜日

〇バッハの泉(2005年10月28日)

 


〇バッハの泉(2005年10月28日) 

  

 「今やっと、バッハの家の扉の前に立ったところかな」

 京都・バッハ・ゾリステンを主宰する福永吉宏さん(49)はしみじみと語る。バッハの教会カンタータ(声楽曲)200曲の全曲演奏に取り組んで18年余、その完結コンサートを来月3日、洛陽教会(京都市上京区)で開く。

 その全曲演奏は日本では初めてで、欧州でも極めて珍しいことだ。演奏会場の教会の定員は約200人。たとえ満席になっても、コンサートは赤字だった。それでも福永さんたちは聴衆と一緒にバッハの音楽を楽しんできた。

 「バッハは日曜日の礼拝に向けて毎週作曲し、合唱の練習しながらカンタータを作った。うまい歌手や楽器奏者がいつもいたわけではなく、暮らしの中に音楽が息づいていた。地位とか名誉を超え、音楽を愛したバッハの生き方にふれた思いがします」

 京都御所近くの教会で、静かに育ててきた「音楽の泉」。「いい仲間にめぐり合い、ここまで続けることができました」と福永さん。この泉を絶やさず、もっと豊かにわかせてほしい。


2005年9月24日土曜日

〇トラウマ(2005年09月24日)

 〇トラウマ(2005年09月24日) 

 

 阪神優勝が目前とはいえ、いまひとつ信じきれない。あのときの光景が今もよみがえるからだ。

 1973年10月22日夕、プロ野球セ・リーグの最終試合となった甲子園球場での阪神―巨人戦。それまで阪神は、残る2試合のうち一つの引き分けでも優勝できた。

 だが、中日戦に敗れ、その日を迎えた。巨人は、勝って59を決めたいところだ。当時、新聞記者1年生で、わくわくしながら球場の警備本部に詰めていた。

 結果は0―9で阪神の完敗。阪神最終打者が三振に倒れるや、「ウォー」とスタンドのあちこちで地鳴りのような声があがった。阪神ファンが金網を乗り越え、グラウンドに乱入してきたのだ。

 「あっ、王さん(貞治・現ソフトバンク監督)が襲われている!」。ぼくはオロオロと駆け回りながら、事件を間近に目撃できる記者の仕事の快感に酔った。

 鬱屈(うっくつ)と熱狂。暴動取材の貴重な初体験だったが、あの猛虎の叫びはトラウマ(心的外傷)のように残る。阪神優勝が常態化すれば、もうあの悪夢を見ることはなくなるかもしれない。

2005年8月4日木曜日

〇古里の声(2005年08月04日)

 〇古里の声(2005年08月04日) 

 

 東京・浅草の観音さまを久しぶりに訪ね、夕立にあって近くの居酒屋に飛び込み、雨宿りしながらビールを飲み始めたときだ。

 カウンターの向こうの座敷で、にぎやかに語らっていた若い4人連れの1人の声が耳に留まった。「九州の炭鉱町の○○小学校を出たんだけど……」。えっ、それって私の母校じゃないか。

 たまらず「私もそこの卒業生だけど……」と名乗ると、彼は「福岡のチンドン屋で、ひと仕事終えたところです」。関西に住む私は、福岡の見知らぬ彼と、東京での不思議な出会いに乾杯した。

 やがて「ちょっと校歌を歌ってみようか」とあいなったが、記憶の闇の底から歌詞が次々と出てくるではないか。「朝雲なびく 小岱(しょうだい)を 光と仰ぐ この窓に……」。自分でも驚くばかりだった。

 その直後、母校の中学校から同窓会の案内が届いた。炭鉱は閉山し、ベビーブーム世代とはいえ古里に残る友は少ない。「お盆に帰って来いよ」と旧友の声が遠くから聞こえてくる。これも観音さまのお導きか、40年ぶりに懐かしい友に会ってみよう。

2005年7月5日火曜日

〇絵師の問い(2005年07月05日)

 〇絵師の問い(2005年07月05日) 


 「チェルノブイリを前に、画家は何をしたらいいのだろうか」

 旧ソ連のチェルノブイリ原発事故から6年後の1992年2月、零下20度のベラルーシ(白ロシア)の村チェチェルスクを訪れた貝原浩さんは、そう自らに問いかけた。そこは、爆発によって巻き上げられた放射能が強い風によってまき散らされ、死の灰が集中的に降ってきたところだ。

 高度に汚染された土地に住み続ける人々。何も知らないで命を奪われる子供たち。美しい自然の中でつつましく、たくましく生きる姿を描き、画文集「風しもの村から」(平原社)を出した。

 その貝原さんが先月30日、がんで他界した。57歳だった。「画家というよりも絵師」と称し、庶民的な目線で社会的なテーマに挑んできた。死の10日前には「小泉首相と靖国問題を描きたい」と病床に画材を持ち込んだそうだ。

 東京芸術大の相撲部のとき、学生横綱だった輪島と対戦したことなどを照れくさそうに語っていた顔が懐かしい。残された絵を見る度に、私もまた「何ができるのか」と自問させられる。

2005年6月24日金曜日

〇単純で不思議なこと(2005年06月04日)

 〇単純で不思議なこと(2005年06月04日) 


 「単純だけど、やっぱり不思議だ。どう考えたらいいの?」。友人からそんなメールが届いた。

 なんでもある報告書が完成したので、関係者に約220部を配ることにした。最寄りの郵便局に相談したら、「持ち込みで、1部340円」と言われた。「数が多いから取りに来て」と交渉すると、集荷に来ることになった。

 ふと佐川急便のメール便を思い出し、交渉すると「1部75円です」との返事。「どうやって配達するの?」と尋ねると、「うち(佐川)で集荷して郵便局に持ち込み、配達してもらいます」。同じものを郵便局員が配達しても、料金は4分の1以下だった。

 日本郵政公社が大口荷主と契約して超安値で配達していることは知っていた。だが、私自身、生活感覚でピンと受け止めていなかった。「こんなアホな話、知ってる?」と周りに聞くと、「経費を節減するつもりなら、知ってて当然ですよ」といわれてしまった。

 だが、郵便局は本当にこれでいいの? 郵政民営化法案が国会で審議中だが、素朴な疑問からもう一度、考えたい。


2005年5月9日月曜日

〇女神(2005年05月09日)

 〇女神(2005年05月09日) 

 

 どうして絵を買おうという気になったのだろうか。これまでたくさんの展覧会に通ったが、絵を買うのは初めてだ。

 大型連休中、大阪市西区で開かれた神戸の画家、石井一男さんの展覧会「女神たち」。会場の天音堂ギャラリーはマンション6階の一室だ。靴を脱いで上がり、居間のような空間で、じっくりと絵に向き合ったせいだろうか。

 石井さんは寡黙で、暮らしぶりは質素だ。92年秋、49歳で開いた最初の個展では「絵を見てもらえるだけでうれしい」と売れた分をそっくり寄付しようとしたほどだ。当初、絵に署名を入れず、世に埋もれるのを当然視していたこの画家の思いにも胸を突かれた。

 なぜか不思議な巡りあわせも感じた。石井さんの父はフィリピンで戦死。天音堂の山口平明さんの父は毎日新聞記者で、広島支局で原爆にあって死んだ。戦後60年、つつましく暮らしてきた2人の遺児を女神の絵が結びつけた。

 黄金週間が終わり、手元に1枚の絵が残った。その野仏のような女神像を見ていると、うれしくてたまらなくなった。


2005年4月2日土曜日

〇花明かりの家(2005年04月02日)

 


〇花明かりの家(2005年04月02日) 


 「流転人生も、これで終わりかなと」。春先、随筆家の岡部伊都子さん(82)から届いたはがきにそうあった。30年近く住んだ京都・賀茂川のほとりの家からJR京都駅近くのマンションに移ったそうだ。「ここには甥(おい)一家が住み、何かあれば、助けてもらえます」

 岡部さんは、戦争や病気、仕事で大阪、神戸など15回近く転々としてきた。だが、築80年以上という賀茂川近くの民家にはいかにも岡部さんらしい風情があった。

 「うちにクーラー、ないんですよ」。夏に訪れると、岡部さんはいつもすまなさそうに言っていた。だが、庭の楓(かえで)や草花、丁寧に使い込まれた家具に囲まれ、とても居心地のいい空間だった。

 思い出の品を整理し、人生の店じまいに備える岡部さんはいう。「今は、すべてにありがとうと言いたい」。戦後60年、日本の美や反戦、差別についてもう十分に語ってきたとも思っている。

 桜が咲き乱れ、闇の中でも見えることを花明かりという。各地から人が集い、時代に小さな灯をともした「花明かりの家」もすでに人手に渡った。


2005年3月13日日曜日

西論風発:大阪市政改革 「外の力」を恐れるな

 


〇掲載年月日 2005年03月13日 

西論風発:大阪市政改革 「外の力」を恐れるな=論説委員・池田知隆 


 ソニーの経営陣が電撃的に刷新され、創業以来初の外国人トップが誕生する。出井伸之会長兼CEO(最高経営責任者)は「私が決断した」と語っているが、会長自らが企業統治のため導入した社外取締役という「外の力」が刷新を主導した、との見方が広がっている。

 社長と対等の立場で経営を論じる社外取締役は、経営者を合理的に監視するシステムとして米国の株主などに歓迎されている。ソニーもまた、日産自動車のカルロス・ゴーン社長のように「外の力」の活用で再生を図ろうとしているようだ。

 これから存続できるかどうかという切実さが企業と自治体とではまるで違うが、その大胆な決断は「外部人材の登用」などで混乱している大阪市政改革との大きな落差を感じさせられる。

 職員厚遇問題に端を発した大阪市の改革をめぐって市側は「大阪市都市経営諮問会議」(座長、本間正明・大阪大大学院教授)の事実上の解散を決めている。「市政改革を本格的に推進するためには、内部だけの体制では無理がある」と中央省庁からの人材登用を強く求める本間氏に対して「中央からの人材起用は、地方分権が進む中で矛盾する」と反発したためだ。

 双方とも改革の必要性はわかっていても、その手法については「同床異夢」だった。

 市は、職員厚遇の批判に応えて新年度予算案で166億円規模の経費削減を示した。だが、それは改革の第一歩にすぎない。「中之島一家」といわれる労使癒着の構造をどこまで改善できるのか、はた目には不安に映る。

 一方、本間氏は、住民当たりの職員数が横浜市の2倍という大阪市の特異な行財政構造などにも深く迫ろうとしている。

 メスをどこまで深く入れるべきなのか。その手術にふさわしい有能な人材がいれば、国とか地方という前に、世界に求めてもいいはずだ。

 大阪には古来、新しいことに挑戦する進取の気風があった。地方自治の主役は納税者としての市民であり、その市民の目にたえる行政こそが求められている。市政改革をめぐるこの混乱を、より品格を備え、世界に開かれた都市として再生する契機としたい。

 

2005年2月13日日曜日

西論風発:食育のススメ “考える力”は食にあり

 〇掲載年月日 2005年02月13日 

西論風発:食育のススメ “考える力”は食にあり=論説委員・池田知隆 

  

 あす14日は、香川県国分寺町立国分寺中学校の「弁当の日」だ。献立から買い出し、調理、弁当詰めのすべてを生徒が行って学校に持参する。親が作った弁当を食べる例はあっても、中学生自らに弁当作りを勧めるのは全国初ではないかという。

 「自分が食べるものを自分一人でも作れるようにしたい」というのが同校長、竹下和男さん(55)の願いだ。4年前、前任の小学校で「弁当の日」を実施し、今年度からは中学校でも3日だけ設けた。

 当然のように「弁当を持って来られない生徒もいる」との声が学校内から出た。竹下さんはいう。「なぜ持参できないのか。それを同級生や担任はどうするのか。それはその子の教育の根本にかかわる現象で、子供からのこんないいサインはない」

 「弁当作りよりも学力向上を」と不安を抱く親にも「ものごとを考え続けるのに必要な体力や意欲の低下がより深刻です。自分の生活が他人にいかに支えられているのか、生徒に気付いてほしい」と訴えた。20学級中14学級が参加し、その日の給食費は返還する。

 「百ます計算」の実践で知られる小学校長、陰山英男さんは、摂取する食品が多い子ほど成績が高い傾向を示すデータを親に見せ、食事に気遣うように頼んでいる。「よく寝て、よく食べるという生活の基本を取り戻すだけで子供は見違えるようになる」と陰山さんも力説する。

 一人で食事する「孤食」や、朝食を食べない「欠食」が増え、子供たちの食生活が乱れている。小泉首相は「食育」の推進を強調し、衆院では「食育基本法案」が継続審議中だ。多くの教育現場で「石橋をさんざんたたいたあげくに渡らない」という「事なかれ主義」が横行する中で、竹下さんの「食育」への挑戦は応援したい。

 「弁当は親が作るほうがずっと楽です。だけど、それを手伝わない不親切さも立派な教育です」。大人が子供にやらせるべきことをやらせていないのではないか、と竹下さんは問いかける。

 子供たちの“自立意識”を育てるためには、大人のほうも生活のは避けられない。


2005年1月9日日曜日

西論風発:大阪市公金乱用 懐徳堂精神を思い起こせ

 〇掲載年月日 2005年01月09日 

西論風発:大阪市公金乱用 懐徳堂精神を思い起こせ=論説委員・池田知隆 

 

 カラ残業やヤミ退職金支給など大阪市の職員への公金乱用が際限なく明るみに出ている。長引く不況で経済的な落ち込みが目立つ大阪で、市職員がこっそりと公金を食いつぶしている実態にあきれ、怒りのもっていき場が見当たらないほどだ。

 大阪は、どうしてこんなに情けない都市になったのか。他方、鳥取県のように県職員の給与カット分を教育に投資している地域もある。自治体職員が身銭を切って自立的な地域社会を模索しているのに比べると、大阪市の姿はあまりにもい。

 東京一極集中が進む中で大阪はここ数十年、都市経営をめぐり右往左往してきた。大阪の「敵」は何も東京ではなく、大阪それ自身の中にある。その構造的な欠陥をしっかりと見るには、過去の歴史をたどるしかない。

 大阪にはかつて、町人自らが倫理的・道徳的素養を高めるため、金を出しあい、英知を養った歴史がある。1724(享保9)年に創設された懐徳堂がそれだ。経済、文化が爛熟(らんじゅく)した元禄期から遠のき、不況のさなかのことだった。武家・官僚社会の江戸とは異なり、町人が自由に学問を愛し、知恵を求め、そこから多彩な人材が育った。

 だが、幕末維新の動乱で1869(明治2)年にその歴史を閉じる。やがて大阪では、学問は空理空論で、実業には結びつかないとばかりに軽視されがちになり、都心から知的拠点が消えた。そんな実利中心のツケが回り、市の中枢部をおのずとマヒさせてきたのかもしれない。

 大阪市はその行政実態のを始めた。まずはそれをガラス張りにして徹底して膿(うみ)を出すことから始めなくてはならない。だが、ほころびを繕うだけでも困る。これから大阪をどうするのか。その目標や方法論、市民からの信頼がなければ、未来もない。その結果、大阪府との合併によってスリム化させる選択があってもいい。

 懐徳堂が生まれた地にふさわしく、市民の自立性と市民的倫理に立った地域文化をいかに実現していくのか。歴史を思い起こし、市民の思いと志を結集した大阪を築く好機にしたい。