1999年5月27日木曜日

〇悠久の味(1999年05月27日)

 〇悠久の味(1999年05月27日)

  

 「砂漠の幸を味わってください」。モンゴル研究者の滋賀県立大学教授、小貫雅男さんが珍味「フムール」を持参してくれた。ニラの香りに似ているものの、ピリッとして味は濃厚だ。「スープの隠し味としてちょっと入れると、モンゴルの香りを楽しめますよ」

 これは、ゴビ砂漠だけに生えるユリ科セッカヤマネギという草。夏から秋にかけて砂漠の一面に紫色の花を咲かせ、地元の人たちは冬支度を兼ねて一斉に摘む。それを細かく刻み、砂漠の岩塩で作り上げたもので、骨付き羊肉につけると一段とおいしく、遊牧民の食生活に彩りを添える。

 ふと、小学生のころに見たウォルト・ディズニーの映画「砂漠は生きている」を思い出した。雨が降らなくなれば花は枯れる。虫はトカゲに食べられ、トカゲは鳥に食べられ、いずれはみんな死んでいく。みんないろんな生き方、死に方をするけれど、あとには砂漠だけが残る。本当に生きているのは砂漠だけ、という内容だった。

 太陽をさんさんと浴び、砂地の中から養分を集めて芽生えた「フムール」は、“いのちのエキス”なのかもしれない。都会の砂漠での単身赴任生活で、コンビニ頼りの食事をしているせいか、その風味に触れているうちに、ほんの少しだけ悠久の流れに浸っているような気がしてきた。

1999年5月20日木曜日

〇MF教師(1999年05月20日)  「いつも寝ている猫」「海に漂っているクラゲ」、そして「私は貝になりたい」――。教師たちが「生まれ変わったときに、何になりたいか」と聞かれ、とっさに口に出たのがそれだった。「キレる子供の心を救うには、お笑いが一番」という「教師のためのお笑い実践セミナー」に集まってきた教師たちはみんな疲れているようだ。  「面白い先生」になって、笑いの絶えない明るい教室にすれば、「学級崩壊」現象に少しでも対応できるかもしれない。そんな切実な思いを抱いている教師たちに、講師のお笑い評論家、西条昇さんはこう助言していた。  「サッカーの中田英寿選手のように教師はMF(ミッドフィールダー)として選手(子供)の個性を引きだすパスをタイミングよく出さなくてはいけません。監督、コーチなど、上の立場から言っても、何も届きませんよ」  発想が柔軟な子供たちはもともとユーモリストだし、バラエティー番組で笑いのセンスに磨きをかけている。「笑わせようとすれば、子供たちはさっと身を引き、座がシラッとするだけ」と教師は嘆き、笑いのパスを出す“MF教師”になるのは大変なようだ。そういえば、「生まれ変わったら、お笑い芸人のような人気者になりたい」との返答もあったが、笑ってばかりではすまされない話だ。【池田知隆】

 〇MF教師(1999年05月20日)



 「いつも寝ている猫」「海に漂っているクラゲ」、そして「私は貝になりたい」――。教師たちが「生まれ変わったときに、何になりたいか」と聞かれ、とっさに口に出たのがそれだった。「キレる子供の心を救うには、お笑いが一番」という「教師のためのお笑い実践セミナー」に集まってきた教師たちはみんな疲れているようだ。

 「面白い先生」になって、笑いの絶えない明るい教室にすれば、「学級崩壊」現象に少しでも対応できるかもしれない。そんな切実な思いを抱いている教師たちに、講師のお笑い評論家、西条昇さんはこう助言していた。

 「サッカーの中田英寿選手のように教師はMF(ミッドフィールダー)として選手(子供)の個性を引きだすパスをタイミングよく出さなくてはいけません。監督、コーチなど、上の立場から言っても、何も届きませんよ」

 発想が柔軟な子供たちはもともとユーモリストだし、バラエティー番組で笑いのセンスに磨きをかけている。「笑わせようとすれば、子供たちはさっと身を引き、座がシラッとするだけ」と教師は嘆き、笑いのパスを出す“MF教師”になるのは大変なようだ。そういえば、「生まれ変わったら、お笑い芸人のような人気者になりたい」との返答もあったが、笑ってばかりではすまされない話だ。【池田知隆】

1999年5月13日木曜日

〇知のゆくえ(1999年05月13日)

 〇知のゆくえ(1999年05月13日) 


 「日本の若者たちは携帯電話による『話し言葉』の世界にいるが、米国の若者はむしろ電子メールによる『書き言葉』のほうではないか」。先日開かれたサントリー文化財団の創立20周年記念国際シンポジウム「新たな知的開国をめざして」で、劇作家の山崎正和さんがこんな日米比較をしていた。

 それはパソコン、携帯電話の普及時期のズレで生じた一時的な現象かもしれない。だが確かに、自らの考えを世界に語るどころか、閉鎖的な“島宇宙”でおしゃべりに夢中な日本は、世界から見えにくくなっているようだ。

 「専門的な学術分野での交流は盛んでも、教養の分野での交流は細くなっていないか」。そう語る山崎さんはダニエル・ベルさん(ハーバード大名誉教授)たちと国際知的交流委員会を1997年に発足させ、先月末には国際総合誌「アステイオン」を再刊した。国境を超えた文化のルネサンスに日本も加わっていこう、というのだ。

 一方、世界からひときわ“浮遊”しているような日本の若者文化もまた、アニメ、コミック、ファッションのように言語や国境を超え、各地に浸透している。その影響は政治や経済活動よりも速やかで、意外と深い。日米のどちらが知的か、という前に、知的な貢献や交流のスタイルが大きく変わっていくのかもしれない。

1999年5月6日木曜日

〇形見の声(1999年05月06日)

 〇形見の声(1999年05月06日) 

 

 「いま、生ごみはすべて肥料にし、27種類の分別リサイクルをやっています」。水俣病の患者さんが淡々とそう語る言葉には、両親、弟妹など一家全滅という“重み”があった。東京都内でこのほど開かれた第1回水俣病記念講演会でのこと。分別種類の多さと環境づくりへの熱意に胸を突かれた。

 水俣病が地元保健所に届けられ、公式に“発見”されたのは1956年5月1日。それから43年、水俣もまた風化にさらされている。繰り返し水俣を記憶していくために毎年この日の前後に講演会が催されることになり、初回のテーマは「私たちは何を失ったのか、どこへ行くのか」だった。

 その席上、水俣の「語り部」でもある作家、石牟礼道子さんは「形見の声」と題してこう話していた。「患者さんたちは、苦しかったことよりも、一番よかった暮らしを思い出そうとしている。患者さんたちが生きてきた意味とは何だったのか。世の中が忘れた分、私たちが背負いながら、魂のつながりを大事にして生きていきたい」

 しかしいま、水俣病を語ることは地元で嫌われ、現状報告した患者さんは「私の映像を水俣では流さないでほしい」と付け加えた。次々と亡くなっていく患者さんたちの沈黙と祈り。その「形見の声」を聴く力を、いつまでも失いたくないものだ。