2001年6月12日火曜日

西論風発:大阪・学校乱入殺傷事件 学校の門を閉ざすな

 〇掲載年月日 2001年06月12日 

 西論風発:大阪・学校乱入殺傷事件 学校の門を閉ざすな=池田知隆・編集委員 

  

  自ら死ぬために、どうして無差別に児童を殺したのか。児童8人が刺殺された大阪・学校乱入殺傷事件で、宅間守容疑者は「エリートでインテリの子をたくさん殺せば、確実に死刑になる」と供述し、「時代の闇」の深遠さを見せつけた。鬱屈(うっくつ)した破壊衝動はなぜ学校に向けられたのか。

 襲われたのは、地域から特別のまなざしでみられる国立の小学校。「この小学校で公開テストを受けたことがある。テストの後、落ち込んだ」と宅間容疑者の父親は語った。兵庫県伊丹市内の小学校での校務員当時、傷害事件で免職になった。そうしたことで彼が「死にたい」という心の苦しさや挫折の原因をさかのぼったとき、<学校という存在>が浮かんだのだろうか。

 無差別大量殺人の動機の深層には、社会から拒絶された感情、失敗の記憶、自立感の喪失が横たわり、社会への復讐(ふくしゅう)心がはぐくまれる場合が多い。99年4月のアメリカ・コロンバイン高校で起きた無差別銃撃事件では、火災報知器を鳴らして生徒を校庭に誘い出し、2人の男生徒が銃を乱射した。クールで、狙いを定めた「学校破壊」だった。

 それに対して今回は、37歳の男による衝動的な凶行だ。自らを抑圧し、死に追いやろうとしたものとして、<学校という存在>と無理心中を図ろうとしたのか。さらには「こんなに悪い男だから、罰してくれ」という社会への甘えさえ感じさせる。

 多くの「なぜ」に、わかりやすい「答え」を見つけ、自らを納得させることはできない。4年前、神戸で起きた少年Aによる連続児童殺傷事件の後、各地で「児童虐待」が相次いでいる。どうしてこうも児童や学校が標的になるのか。だが、校門を閉じて、学校空間を多彩な人が行き来する「開かれた学びの場」にする流れを押しとどめるわけにはいかない。

 幼稚園、図書館と併設し、学校を中心としたまちづくりを進める東京・区立千代田小学校では、保護者が学校に立ち入る際にはバッジが必要だ。児童が緊急時に助けを求められるように登下校コース沿いの民家に「子ども110番」シールを張ったり、地域の民生委員、児童委員との連絡を密にしている。舘雅子校長は言う。「学校でできる安全対策をとるのは当然ですが、地域の協力がなければうまくいきません」


 学校と地域のコミュニケーションをいかに再生させていくか。学校を閉鎖された“聖域”にせず、門を開け、風通しのよい場所にしながら、この「時代の闇」に向き合っていかざるをえないようだ。