1996年12月17日火曜日

〇旅のココロ(1996年12月17日)

 〇旅のココロ(1996年12月17日) 


 若者の間で一躍人気者になった電波少年「猿岩石」。その現代版「極貧の旅」のヤラセ騒動で将棋の十三世名人、関根金次郎の遊歴の旅を思い出した。明治、大正、昭和を生きた最後の終身名人で、「王将」の阪田三吉の宿敵として知られるが、なかなか面白い人物だ。

 関根は16歳で旅に出た。そのころ、一種の作法があって、手拭い一本あれば全国を渡れた。各地の将棋好きから紹介された家で「ご当地は初めてのこと、何分よろしく……」と言い、「ほんの土産の印まで」と手拭いを差し出せばいい。すると若干の路銀と一緒に手拭いを返してくれるのが習慣だった。

 あるとき、関根は無一文で、手拭いを失い、自分の褌をたたみ、紙に包んで出した。ところが、あいにく亭主が留守で、応対した妻が気の毒そうに包みをしまい、「それは褌です」とも言えず、閉口したというオチもある。そんな旅で将棋と心を鍛え、日本を一巡すると、角一枚は強くなったそうだ。

 私も17歳だった30年前の夏、自転車で日本一周した。懐メロのようにそのことを語る気はない。ただ自らを社会にさらすことに旅の醍醐味を感じた。演出された仮想の旅を声援するより、リアルな旅の体験を!


1996年11月26日火曜日

〇空を越えて(1996年11月26日)

 


〇空を越えて(1996年11月26日) 


 「手塚治虫さんをご存じだったそうですね。飲み屋で聞きましたよ」。先日、編集者から電話があり、一冊の新刊本が届いた。「空を越えて 手塚治虫伝」(創元社)。大阪北部の小学校教師だった今川清史さんが手塚マンガの魅力とその源泉を探った労作だ。

 こんな一節がある。小学校時代の作文の先生、乾秀雄さんは「手塚治虫のような教え子をもったことを、どう思われますか」と新聞記者に問われ、こう答えている。「ぼくが彼にしてあげたことは特別にないけど、才能の芽をつむことはしなかった。これがぼくの教育者としての誇りですね」                  

 マンガの神様から「人生の恩人」といわれていることは教師冥利に尽きる、とも思えるが、当人の言葉は謙虚だった。その記事をきっかけに今川さんは乾さんを訪ね、クラスの子たちにも手塚さんのことを語ってもらった。そして手塚マンガの源流には、作文教育と師弟愛がある、と書いている。

 宝塚歌劇の取材で出会った手塚さんはぼくのような一記者にまで年賀状をくれ、そのこまやかな心遣いへの思いが胸をよぎる。時空を超えた人と人とのつながり。本を読み、心にぽっと灯りがともるようだった。

1996年11月2日土曜日

〇ナシの涙(1996年11月02日)

 〇ナシの涙(1996年11月02日) 


 「今年の味はどう?」。九州の実家から「荒尾ナシ」が届き、母から電話があった。甘くて、水気も多く、歯ざわりのいいジャンボナシで、ふるさと自慢をしたくなるほどうまい。

 一切れ口に入れると、かつて三井三池炭鉱の黒ダイヤ景気にわき、いまはすっかり寂しくなった故郷の光景が目前に広がってくる。

北海道・夕張炭鉱の夕張メロンと同じように、炭鉱離職者対策の一端を担った特産品のナシは少しずつ知られるようになった。

 春、ナシ畑は白いじゅうたんを敷き詰めたように花を咲かせる。

ふと、映画「ひまわり」の1シーンが浮かんだ。出征した夫を捜し、ソフィア・ローレンが訪ねた激戦地一面に咲くひまわり。戦争の悲しみ、心に渦巻く情念を見事に表現していた。ここも労働争議、炭鉱爆発など時代の荒波に襲われ、ナシ畑の下には炭鉱マンの思いが埋もれ、白い花はその涙のようにも見える。

 いつも仰ぎ見ながら育った三池炭鉱のシンボルで、有明海底につながる「東洋一の竪坑やぐら」(旧四山鉱)が先日、爆破、解体された。三池炭鉱そのものも来春には閉山となり、124年の歴史を終える。今年のナシはほんのちょっとほろ苦い。


 「今年の味はどう?」。九州の実家から「荒尾ナシ」が届き、母から電話があった。甘くて、水気も多く、歯ざわりのいいジャンボナシで、ふるさと自慢をしたくなるほどうまい。

 一切れ口に入れると、かつて三井三池炭鉱の黒ダイヤ景気にわき、いまはすっかり寂しくなった故郷の光景が目前に広がってくる。

北海道・夕張炭鉱の夕張メロンと同じように、炭鉱離職者対策の一端を担った特産品のナシは少しずつ知られるようになった。

 春、ナシ畑は白いじゅうたんを敷き詰めたように花を咲かせる。

ふと、映画「ひまわり」の1シーンが浮かんだ。出征した夫を捜し、ソフィア・ローレンが訪ねた激戦地一面に咲くひまわり。戦争の悲しみ、心に渦巻く情念を見事に表現していた。ここも労働争議、炭鉱爆発など時代の荒波に襲われ、ナシ畑の下には炭鉱マンの思いが埋もれ、白い花はその涙のようにも見える。

 いつも仰ぎ見ながら育った三池炭鉱のシンボルで、有明海底につながる「東洋一の竪坑やぐら」(旧四山鉱)が先日、爆破、解体された。三池炭鉱そのものも来春には閉山となり、124年の歴史を終える。今年のナシはほんのちょっとほろ苦い。

1996年10月12日土曜日

〇宴のあとで(1996年10月12日)

 〇宴のあとで(1996年10月12日) 


 「まるで梁山泊だったな」。次々と駆けつけてきた顔を見るたびにそう思えてくる。23年前、記者としてふりだした阪神支局。その当時の面々と先日、宝塚の保養所で一夜を共にした。

 そのころは石油ショックで日本の高度経済成長が終わり、大きな転換期だった。道路公害、大阪空港騒音訴訟、甲山事件……を抱え、支局はまるで“時代のるつぼ”。毎晩、支局前の国道をチンチン電車が走り出す夜明けまで酒盛りが続き、議論にくれた熱っぽい光景がいまも鮮やかに目に浮かぶ。

 論説委員、代表室長、社会部長、大学教授として活躍中の元支局員に「立派になった」と顔をほころばせる元支局長、Jさん。酒豪の元デスク、Yさんは、よく酒につきあってくれた記者ほど体調を崩し、顔を出せなかったことを知り、少し寂しげだった。

 時は流れ、私もいつしか当時の支局長と同じ年齢に。多くの夢、宿題は放置したままだ。宴のあと、一人残って酒を飲み続けたYさんはつぶやいた。「新聞記者は結局、社会の上っ面をすくっているだけやないか」。一線を離れて新聞と現実の裂け目がよく見えるようだ。その胸にくすぶる“記者魂”にギクリとさせられた。

 

1996年9月11日水曜日

〇砂の音(1996年09月11日)

 〇砂の音(1996年09月11日)

 

「サッ、サッ、サッ……」。その小さなタイ焼きのような土器を揺らすと、素朴な音がする。陶魚形響器。2片の泥板を接合して、真ん中が空っぽの魚形をつくり、その中に粗い砂を入れ、高温で焼いた土製マラカスだ。

 この響器は、2000年前、中国南部に栄えた南越国の王墓から見つかった。その複製品は京都文化博物館で開催中の「中国・南越王の至宝展」(23日まで)会場の土産物としてけっこう人気がある。王のそばでは楽士が殉死していたが、この響器は古代王朝の舞楽の光景を今によみがえらせてくれる。

 ふと、小学校のころに見たウォルト・ディズニーの映画「砂漠は生きている」を思い出した。雨が降らなくなれば花は枯れる。虫はトカゲに食べられ、トカゲは鳥に食べられ、いずれはみんな死んでいく。みんないろんな生き方、死に方をするけれど、あとには砂漠だけが残る。本当に生きているのは砂漠だけ、という内容だった。

 土と砂でできた響器。「これを持ち続ければ、数千年後に宝になりますよ」と中国の学芸員が語っていたが、この砂の音だけは永遠に生き続ける。その音を楽しみ、ほんの少し悠久の流れに浸った気がした。

1996年8月14日水曜日

〇男のつらさ(1996年08月14日)

 〇男のつらさ(1996年08月14日) 


 「やあ、みんな、元気かい」。天国へ旅立ったはずの寅さんが、豆電球の光がチカチカと流れるタカラヅカの大階段をにこやかな笑顔で下りてくる夢を見た。いまは、お盆の最中だ。

 映画「男はつらいよ」とタカラヅカが、寅さんと男役スターが似ている、とずいぶん昔に書いたことがある。タカラヅカは生活のにおいを切り捨てた人工美の世界、一方の寅さんは庶民的で、現代人が忘れがちなやさしさ、思いやりへの郷愁、と表面上の魅力の違いははっきりしている。だが、スクリーン・舞台との濃密な一体感、見終わったあとの観客の晴れ晴れとした表情は同じだ。いずれも男と女の“つらさ”に対する“慰め”ではないか、と。

 寅さんには男の色気がある。放浪、気楽さへの憧れ、そして男の恥じらい。女好きのする二枚目性を恥じ、「男の美学は別にある」といいたがる男心。その魅力の“仕掛け”は、男に媚を売る女を嫌い、凛々しさに憧れるという女心の男役賛美とも共通している。

 大階段の寅さん。「もう、お呼びじゃない!?」と照れながら引き返し、幻は消えた。「男であること」の“つらさ”を語っても、宙に浮く時代の流れを予感したかのように。

1996年7月2日火曜日

〇花明かり(1996年07月02日)

 〇花明かり(1996年07月02日) 


 「7年ぶりに沖縄に行ってきます」。京都・賀茂川のほとりに住む随筆家、岡部伊都子さん(73)からの手紙にそうあった。お宅を訪ねると、「お医者さんが“(体調が)悪くなってももともとだから、勇気をだして行ってきたら”と、励ましてくださったの」と岡部さんは声を弾ませていた。

 岡部さんにとっての戦後は、沖縄を抜きに語れない。出征前に「天皇陛下のためになど死にたくない」と打ち明けた婚約者を、「私なら喜んで死ぬ」と日の丸の旗を振って送り出した。中国北部から沖縄に転属された彼は、沖縄戦で両足を負傷、首里の近くで自決したという。それを知り「私は加害の女だった」と自らの戦争責任を問い、1968年から21年間、沖縄に通った。

 平和の礎などを訪ねる今回の旅には、岡部ファンが各地から合流する。「よろけても、みんなで介護するからって」とうれしそうだ。「沖縄の皆さんにも、お別れをしておかないと。顔が見分けられるうちに、ね」                       

 9日、その首里の図書館で開館記念講演をする。題は「花明かりゆらめく」。暗い夜、花明かりがぼうっと照らすように岡部さんは戦後51年目の夏、小さな時代の灯をともす。

1996年6月10日月曜日

〇夢のあと(1996年06月10日)

 〇夢のあと(1996年06月10日) 


 今月2日、大阪市西成区のカトリック教会でささやかな葬儀が営まれた。賛美歌で送られたのは津崎鉄男さん、64歳。日本各地のユートピアを訪ね回った後の天国への旅立ちだった。

 三重県に本拠をおく共同体「幸福会ヤマギシ会」の初期の会員で、哲学者、鶴見俊輔さんを「村」に案内したり、「日本ユートピア学事始」という共著もある。70年前後の学園紛争の後、若者が押し寄せ、「村」は急激に拡大。そのテンポになじめず、82年に妻と3人の子を抱え、「村」を去った。

 しかし、50歳を超え、難民生活を余儀なくされた。九州の妻の実家にいったん身を寄せたが、妻子と離別。水俣や各地の共同体を訪れたあと西成区に落ち着いた。そこは廃品回収を営む生活共同体で、生活費以上のものは世界の貧しい地域に送っているところだ。

 部屋に残されていた36冊もの日記。それは毎日欠かさず、「花ちゃん、おはよう」で始まっていた。ユートピアとはもともと、どこにもないところという意味だが、彼がその旅の最後に求めたのは、2歳のときに別れた娘の幻だった。日記を預かったものの、今春、高校に進学した花ちゃんにどう話したらいいものか。

 

1996年5月21日火曜日

〇紙芝居(1996年05月21日)

  

〇紙芝居(1996年05月21日) 


 「水俣じゃ海が毒されて、漁はでけんし、奇病じゃちいわれて町で仕事もでけん。患者さんたちは関西にでん(にも)、関東にでん、仕事ば探して出かけて行きよらした」            

 絵本「水俣の紙芝居」(神戸・水俣病を告発する会)が友人から届いた。古里の言葉が懐かしい。絵を描いたのは、「マンガちゃん」と呼ばれていたイラストレーター、永井文明さん。灘中・高校、京都大法学部を経て絵の道に転じ、水俣のことを子どもたちに語り継いでいきたい、との夢を抱きながら3年前の5月、54歳で亡くなった。遺骨は不知火の海にまかれた。

 水俣病公式発見から40年。国による最終解決策を患者さんは受け入れ、告発する会は永井さんが残した紙芝居の原画をもとに絵本を出版した。「この本は永遠に未完だな、との思いがあるが、永井さんとのつきあいのささやかな記念に」と後書きにある。

 カチカチ、さあ始めるよ…、天国で紙芝居をする永井さんの姿が目に浮かぶ。マルチメディア時代でいろんな「電気紙芝居」になじんできた今の子どもたちにも、水俣のことはやはり、肉声でこそ語り継いでいかなくては、と思えてきた。

 

1996年4月25日木曜日

〇別れ道(1996年04月25日)

  

〇別れ道(1996年04月25日) 


 「元気してる? 写真集を送るから見てね」。写真家、太田順一氏のやさしい声が電話口に響く。大阪に暮らす沖縄の人たちを撮った「大阪ウチナーンチュ」(ブレーンセンター刊)がまもなく届き、それをめくるうちに、27年前の光景がよみがえってきた。

 1969年4月。当時、「ヨン・ニッパー」と呼んでいた「4・28沖縄デー」を数日後に控えたころだった。大学入学直後、彼の下宿でぼくは級友に沖縄で見た基地の姿を熱っぽく語った。向学心に燃え、語学学校にも通っていた彼に別れ際、「いま、そんな時期か!?」と言ったような記憶がある。

 それから10年後。大阪の警察署内で取材中、ばったり出会った。「あれっきり姿を消したので、心配していたよ」と彼。中退したと思われていたぼくが卒業して新聞記者になっていたから、目を丸くしていた。逆に彼のほうが中退し、カメラマンになっていた。

 よく酒を飲み交わすが、あの別れ際のぼくの言葉に、彼はいつも苦笑いするだけだ。人々の暮らしに丁寧に向き合う彼の仕事ぶりには教えられる。「おまえはただジタバタしてきただけではないか」。心の奥から憎らしい声が聞こえてきた。ああ。

1996年4月4日木曜日

〇旅ゆけば…(1996年04月04日)

  

〇旅ゆけば…(1996年04月04日) 

 

 なんでもない事柄でも、旅をしているとひときわ印象深く見えることがある。やみの中、一筋の光で浮かび上がってきた光景もそうだった。

 3月下旬、ドイツで開かれた日本の宗教に関する国際シンポジウムに参加して帰国する機内でのこと。ほとんどの乗客が眠りにつき、エンジン音だけが静かに響いていた。そのとき斜め前の日本人女性が何気なくライトをつけ、雑誌を広げた。その光の先には、日本の新新宗教の教えが説かれていた。

 ドイツ人大学教師の夫と幼女を連れての旅の途中、彼女はそのつかの間のひとときに安らぎを得ているかのようだった。ちょうど日本の新宗教、新新宗教の海外進出ぶりを取材してきた直後だっただけにその姿は強烈に映った。

 世界各地で民族と宗教をめぐる紛争が続く。宗教感覚があいまいだといわれる日本人は心のよりどころをどこに求めていくのだろうか。国際結婚した日本人女性の中には精神的な病に陥り、日本の新新宗教に入信する人も多い、とドイツ在住の日本人から聞いた。旅の最後に出合った光景は「きちんと追いかけろよ」とのお告げ(?)だったのか。旅をすれば、「心の風景」が鮮やかに見えてくる。