1998年3月27日金曜日

〇旧友(1998年03月27日)

 〇旧友(1998年03月27日) 

 

 「いま、なんばしよっとね!」。28年ぶりに会った中学時代の旧友、I君に聞くと、「タイル舗装の仕事をしとる」と懐かしい九州なまりの声が返ってきた。小柄だが、握手したその手はグローブのような大きさだった。

 九州・筑豊炭鉱の落盤事故で父を失ったI君は、炭鉱マンの叔父さんに連れられて私の中学校に転校してきた。3年の秋から卒業までのわずかな時を共有した仲だが、忘れられない友人だ。集団就職列車で名古屋の鉄鋼所に向かった彼の姿が、鮮明に蘇(よみがえ)ってきた。東京五輪が行われた年の春だった。

 「もう少し仕事の手をぬいたら、といわれても、わしゃできないんだ。おかげで、仕事が途切れることはなか」。すっかり職人になりきっていたI君はいま、妻と長男と一緒に仕事ができることを喜んでいた。「遊歩道が完成した時、これはわしがやったんだと思うと、うれしいもんだよ」                   

 春、4月。新聞記者になって25年、ずっと仕事してきた関西の地を離れることになった。その前に「人生」や「社会」への目を開いてくれたI君に会いたくなって、大阪にいた彼を捜し当てた。静かに酒を飲み交わし、元気のもとをたくさんもらった。


1998年2月16日月曜日

〇父の死(1998年02月16日)

 〇父の死(1998年02月16日) 

 

 「お父さんも見ててくれると思って滑りました」。冬季五輪で日本女性初の金メダリストになった里谷多英さんは、会見でそう語っていた。スピードスケートで日本初の金メダリスト、清水宏保さんもまた亡き父に受賞の喜びを報告していた。2人の「栄光」の背後になぜか、「早死にした父」がいた。

 「運動選手の必須(ひっす)条件は、まず両親が離婚しているか、片親であること」という作家、虫明亜呂無さんのスポーツ人生論をふと思い出した。「東京五輪のころの水泳の女子選手の中で、両親が健在なのは木原光知子さんぐらい。あとはみんな、親や家庭のことで苦労していた。そうでないと、あのトレーニングの辛(つら)さにはついていけない」                  

 さらに女性選手の場合、指導者に対して「愛する人はただ一人、この人のために」心中するぐらいの覚悟がいる、というのである。

そんなスポーツ“道行き”論を私に個人授業してくれた虫明さんが、天国から「いまも、そうかな」とささやく声が聞こえる。

 しかし、その2人の金メダリストの笑顔は“辛さ”を感じさせない。ただ「父性復権」論がにぎやかな今日、父は死を通してこそ鮮明に復活することを伝えているようだ。

1998年1月5日月曜日

〇上海にて(1998年01月05日)

 〇上海にて(1998年01月05日) 

  

 大みそかの夜、上海の和平飯店のジャズバーで過ごした。舞台や映画でヒットした「上海バンスキング」で流れていた1930年代のジャズ。その残り香に浸りたかったからだ。

 当時、上海はビザなしで入れる唯一の国際都市だった。イギリス人はテニスコートと競馬場、フランス人は美術館、ドイツ人はビアホール、アメリカ人はダンスホールを持ち込んだ。日本人は無粋な「銃剣」を携えて入り、戦争の泥沼に足をとられた。

 それから60年余。上海は再び活気に沸き、バーは日本の若いカップルや欧米の観光客で満席だった。外は雨。中国ではもっぱら旧正月をにぎやかに祝い、街からは早々と人影が消えた。

 翌元日付現地紙のトップでは、江沢民主席が「あらゆる面で中国は希望に満ちている」と笑っていた。かつてアメリカの脅威を「張り子の虎(とら)」と言っていた中国が、逆に脅威と見られる時代だ。が、帰国後、日本の元日各紙に驚いた。経済混乱のアジアや世界への関心は激減し、代わりに日本人の絆(きずな)や家族をめぐる記事が目立った。

 日本はどこまで内向化していくのか。上海のジャズに浮かれたせいか、ちょっと気になった。