1999年4月1日木曜日

〇遠い家族(1999年04月01日)

 〇遠い家族(1999年04月01日) 


 懐かしく、不思議な体験だった。草原でつつましく生きるモンゴルの人々を描いた映像作品「四季・遊牧」。上映時間7時間40分、休息時間も含めると10時間にも及ぶその「お弁当二つの上映会」が東京都内で開かれた。会場全体にゆったりとした空気が流れ、人間の暮らしをめぐって談笑の輪が広がり、いつしか私もひき込まれた。

 監督、撮影は滋賀県立大学教授(遊牧地域論)、小貫雅男さん。1992年秋から1年間、現地滞在して撮影したビデオ125時間分を編集した。ナレーターも自らこなし、愛情に満ちたまなざしで遊牧生活を映し出している。

 上映会には盛岡、仙台、新潟から駆けつけた夫婦連れがいた。応募はがきに「失業し、元気のない主人にプレゼントしたい」との添え書きもあった。今、家族ってなんだろう。家族は最も身近なようで、遠いのかもしれない。遠いモンゴルの家族を通して、観客はそれぞれの家族の絆(きずな)を探していた。

 「長時間かけ、私たちとは対極の“世界”に身を浸すことは意外と新鮮なようです。地道だけど、上映運動をめぐるさまざまな出会いを重ねる中で、現代の“閉塞(へいそく)”を打開する希望が見えてくるかもしれない。沖縄での上映会も決まり、いよいよ全国各地を回ります」

 春、4月。小貫さんの新たな旅立ちを見守りたい。

1998年3月27日金曜日

〇旧友(1998年03月27日)

 〇旧友(1998年03月27日) 

 

 「いま、なんばしよっとね!」。28年ぶりに会った中学時代の旧友、I君に聞くと、「タイル舗装の仕事をしとる」と懐かしい九州なまりの声が返ってきた。小柄だが、握手したその手はグローブのような大きさだった。

 九州・筑豊炭鉱の落盤事故で父を失ったI君は、炭鉱マンの叔父さんに連れられて私の中学校に転校してきた。3年の秋から卒業までのわずかな時を共有した仲だが、忘れられない友人だ。集団就職列車で名古屋の鉄鋼所に向かった彼の姿が、鮮明に蘇(よみがえ)ってきた。東京五輪が行われた年の春だった。

 「もう少し仕事の手をぬいたら、といわれても、わしゃできないんだ。おかげで、仕事が途切れることはなか」。すっかり職人になりきっていたI君はいま、妻と長男と一緒に仕事ができることを喜んでいた。「遊歩道が完成した時、これはわしがやったんだと思うと、うれしいもんだよ」                   

 春、4月。新聞記者になって25年、ずっと仕事してきた関西の地を離れることになった。その前に「人生」や「社会」への目を開いてくれたI君に会いたくなって、大阪にいた彼を捜し当てた。静かに酒を飲み交わし、元気のもとをたくさんもらった。


1998年2月16日月曜日

〇父の死(1998年02月16日)

 〇父の死(1998年02月16日) 

 

 「お父さんも見ててくれると思って滑りました」。冬季五輪で日本女性初の金メダリストになった里谷多英さんは、会見でそう語っていた。スピードスケートで日本初の金メダリスト、清水宏保さんもまた亡き父に受賞の喜びを報告していた。2人の「栄光」の背後になぜか、「早死にした父」がいた。

 「運動選手の必須(ひっす)条件は、まず両親が離婚しているか、片親であること」という作家、虫明亜呂無さんのスポーツ人生論をふと思い出した。「東京五輪のころの水泳の女子選手の中で、両親が健在なのは木原光知子さんぐらい。あとはみんな、親や家庭のことで苦労していた。そうでないと、あのトレーニングの辛(つら)さにはついていけない」                  

 さらに女性選手の場合、指導者に対して「愛する人はただ一人、この人のために」心中するぐらいの覚悟がいる、というのである。

そんなスポーツ“道行き”論を私に個人授業してくれた虫明さんが、天国から「いまも、そうかな」とささやく声が聞こえる。

 しかし、その2人の金メダリストの笑顔は“辛さ”を感じさせない。ただ「父性復権」論がにぎやかな今日、父は死を通してこそ鮮明に復活することを伝えているようだ。

1998年1月5日月曜日

〇上海にて(1998年01月05日)

 〇上海にて(1998年01月05日) 

  

 大みそかの夜、上海の和平飯店のジャズバーで過ごした。舞台や映画でヒットした「上海バンスキング」で流れていた1930年代のジャズ。その残り香に浸りたかったからだ。

 当時、上海はビザなしで入れる唯一の国際都市だった。イギリス人はテニスコートと競馬場、フランス人は美術館、ドイツ人はビアホール、アメリカ人はダンスホールを持ち込んだ。日本人は無粋な「銃剣」を携えて入り、戦争の泥沼に足をとられた。

 それから60年余。上海は再び活気に沸き、バーは日本の若いカップルや欧米の観光客で満席だった。外は雨。中国ではもっぱら旧正月をにぎやかに祝い、街からは早々と人影が消えた。

 翌元日付現地紙のトップでは、江沢民主席が「あらゆる面で中国は希望に満ちている」と笑っていた。かつてアメリカの脅威を「張り子の虎(とら)」と言っていた中国が、逆に脅威と見られる時代だ。が、帰国後、日本の元日各紙に驚いた。経済混乱のアジアや世界への関心は激減し、代わりに日本人の絆(きずな)や家族をめぐる記事が目立った。

 日本はどこまで内向化していくのか。上海のジャズに浮かれたせいか、ちょっと気になった。

1997年11月18日火曜日

〇血と骨(1997年11月18日)

 〇血と骨(1997年11月18日) 

 

 筑豊の記録作家、上野英信さんが亡くなってこの21日で10年を迎える。その後、産炭地の文化拠点、筑豊文庫を守っていた妻の晴子さんも今夏亡くなり、春には三井三池炭鉱が124年の歴史を閉じた。炭鉱の姿は日々遠のく。

 「あなたの故郷・三池で炭住(炭鉱住宅)の解体も進んでいますよ……」。晴子さんから数年前、手紙をもらい帰郷した。労働争議や事故など時代の荒波を炭鉱マンが「家族ぐるみ」で乗り越えた炭住は朽ちかかっていた。遠く中南米の移民となった炭鉱離職者たちの思いを上野さんはこう書いている。

 「いつもながら胸をうたれるのは、彼らがヤマ(炭鉱)を恋い慕う情念の深さである。生まれ故郷を恋うにもまして、その想(おも)いは哀(かな)しく熱い。彼らにとって、ヤマは単なる職場であったのではない。みずから血と骨をもって掘り築いた<まぼろしの国>であったのだ。その重みを思い知らされて、わたしは慟哭(どうこく)する」

 いま「大不況」の予兆をめぐって世は騒がしい。しかし、血と骨で築くような濃密な職場はいつしか少なくなり、「家族ぐるみ」という言葉も死語と化しつつある。社会は「淡泊」になっているのだろうか。

1997年10月8日水曜日

〇人間らしさ(1997年10月08日)

 〇人間らしさ(1997年10月08日) 

 

 「2020年にはコンピューターが将棋名人に勝ちます」。静岡大学講師(認知科学)、飯田弘之さんがこのほど国際日本文化研究センターで開かれた「将棋の戦略と日本文化」の共同研究会で、そんな研究報告を発表した。

 プロ五段(休場中)の飯田さんは、棋士初の国立大学教員で、自らの勝負経験をもとに人工知能を研究中。今年5月、チェス名人がコンピューターに敗れて以来、研究者の関心はチェスよりもはるかに複雑な将棋に移り、やがてプログラム・ソフトが名人位を獲得するのは研究者の常識、だそうだ。

 「プロ棋士は軒並み廃業かも」「新聞雑誌の将棋の問題はコンピューターで解け、成立しない。マスコミに与える影響はどうなのか」。出席者の間で議論が沸騰し、「コンピューターは日本文化を超えるのか」という声も。

 飯田さんはいう。「いまやサッカーもホットな研究テーマです。あらゆる人間行動をプログラムに入れたら……」。コンピューターがサッカーの勝負にどう絡むのか興味深いところだが、さて人間らしいプレーとはいったい何なのか。ともあれ、コンピューターが将棋名人に勝つ日までは生きて、その瞬間を見たいものだ。

 

1997年8月28日木曜日

〇裏と表(1997年08月28日)

 〇裏と表(1997年08月28日) 

 

 「新聞は日毎」。地球の裏側のブラジルで今夏、邦字新聞を読んでいて、そんな見出しに一瞬ギクリとした。太陽は北にあり、国民性などなんでも日本と反対という国だから、「毎日新聞」もひっくり返っているのか、とつい錯覚したのだが、それは「日伯毎日新聞」の単なる略称だった。

 「10歳でブラジルに移住してきたとき、学校のテストで正解欄に○をつけたはずなのに、どうして間違いなのか、不思議でなりませんでしたよ。ここでは正解欄には×印をつけるんです」。アマゾンを案内してくれたマナウス在住のガイド、木場孝一さん(49)は懐かしそうに体験談を語ってくれた。

 地球の反対側に新天地を求めたブラジル移民が始まって来年で90年になる。いま、日系人は120万人を超えたが、そのうち約23万人が日本に出稼ぎに来ている。「あちこちからわき出るように出稼ぎ希望者が現れ、兄も日本に帰ったまま」と木場さんは寂しそうだ。「でも、どこに行こうと、新しい土地で生活するのは厳しい」

 どこで生活していくのが正解なのか、だれにも分からない。裏と表は正反対のように見えながら、それぞれに正解があるのだから。