1999年6月24日木曜日

〇道行き(1999年06月24日)

 〇道行き(1999年06月24日) 

 

 「阪神は近松(門左衛門)と似ている」。かつて詩人、佐々木幹郎さんがそう語っていた。近松の「心中天網島」にしても、男と女が「道行き」をするとき、そこには美学も道理もない。降りかかる不幸に対し、身悶(みもだ)えする生き物として人間を生き生きと描いている。つまり阪神は「美も、道理もない」身悶えする存在というのである。

 佐々木さんによると、近松の世話物のキーワードは「道楽」という。もともと悟りの楽しみという仏教用語だが、品行が悪いとのニュアンスもある。しかし関西ではそんな「道楽」に寛容だ。周囲からさげすまれ、軽んじられながら、なおかつ努力し、けなげな姿で落ちていく近松の主人公たちの「道楽」の境地。それは、勝負よりもいかに楽しむか、と諦念(ていねん)を知る阪神ファンの心情ともつながってくる。

 ところで、野村阪神はいま、虎(とら)の子の貯金を使い果たし、ピンチに立たされている。「ID野球」という「道理」を持ちこんだものの、なかなか通じない長年の「道楽」気質。それに加えて妻沙知代さんを取り巻く猛烈な嵐(あらし)。野村監督は自らの宿命を見つめ、苦悶(くもん)しているのかもしれない。

 今年のプロ野球は、野村阪神の「道行き」の舞台と見れば、ひときわ味わい深い。野村監督はまさに、近松の世界を生きている。


1999年6月17日木曜日

〇雄叫び 1999年06月17日

 〇雄叫び 1999年06月17日


 「なんだ、こりゃ」と思わず口にでた。単身赴任先の東京から久しぶりに京都の自宅に帰ると、家中に「六甲おろし」が鳴り響いていた。カミさんも娘も息子も野村阪神の行方に一喜一憂し、本紙社会面でも阪神をめぐる「同時進行ドキュメント」が展開され、あちこちで「虎(とら)」が吠(ほ)えていた。

 「虎」の雄叫(おたけ)びを2度聞いたことがある。1度目は1973年10月22日、甲子園球場での阪神―巨人戦。阪神は残る2試合のうち一つの引き分けでも優勝だったが、中日戦に敗れ、V9をかけた巨人との戦いに臨んだ。当時、甲子園署担当の記者1年生で、わくわくしながら球場警備本部につめたが、結果は0―9で阪神の完敗。「ウオー」。阪神の最終打者が三振に倒れるや、スタンドから地鳴りのような声が上がり、ファンがグラウンドに乱入、心に潜む「虎」の怖さを思い知った。

 2度目は社会部遊軍記者だった85年、タイガース担当として密着取材し、神宮球場で21年ぶりの優勝の凱歌(がいか)を聞いた。だが、それ以来、家族みんなに「虎」が棲(す)みついてしまった。

 家を離れる際、なぜかふと、家族を動物園の中に置き去りにするような気がした。「そもそも甲子園に連れて行ったのはだれよ!」とみんなに吠えられそうだが、置き去りにされているのはこちらのほうか。

 

1999年6月10日木曜日

〇将棋道(1999年06月10日)

 〇将棋道(1999年06月10日) 

 

 「将棋は日本文化で、囲碁は東アジアの文明ではないか」。国際日本文化研究センター(京都)で共同研究「将棋の戦略と日本文化」を主宰してきた桃山学院大学教授、尾本恵市さん(人類学)はこんな持論をよく語る。

 東アジアで広く行われる囲碁の発想は「中国文明」に基づくものだが、将棋は日本という地域で磨きあげられたゲームだ。相手の駒(こま)を取り、その能力を自分の戦力として使えるのは日本独自のルールで、日本文化が濃厚に反映されている、ともいえる。

 その伝統文化を国内外に再認識してもらおうと、世界初の試みとして「国際将棋フォーラム」(日本将棋連盟主催)が今月19日から2日間、東京国際フォーラムで開かれる。「礼」としての「将棋道」をアピールし、世界6地域27カ国からアマ選手32人による国際将棋トーナメント戦もある。

 囲碁界では韓国、中国勢の活躍が目覚ましく、国際交流が進むほど日本人にとって囲碁のタイトルは遠のいていくのだろうか。一方、将棋界ではその座を脅かされることはなさそうだ。

 「将棋はバーチャル(仮想)な武術で、日本文化を学ぶことにつながる。小学校でもっと将棋で楽しんでほしい」。フォーラムでそんな熱弁をふるうつもりの尾本さんを、共同研究員の一人として応援したい。

1999年6月3日木曜日

〇遠い歌声(1999年06月03日)

 〇遠い歌声(1999年06月03日) 

 

 「やがてくる日に 歴史が正しく書かれる やがてくる日に 私たちは正しい道を進んだといわれよう……」

 1960年の「三井三池争議」を描いた音楽劇「がんばろう」(岡部耕大作・演出、東京・紀伊国屋ホールで8日まで)を見て、遠い記憶の底から一編の詩が聞こえてきた。「総資本対総労働の闘い」といわれたその争議の終結時、労組のビラに書かれた詩だ。小学校6年生だった私には、目前で繰り広げられた市街戦さながらの争議の複雑さが分かろうはずはないが、そのフレーズだけは脳裏に刻まれていた。

 舞台を通して幼いころの光景が幻のようによみがえった。炭住街の共同浴場で汗を流す時の笑顔、運動会の地域対抗リレーでの元気な走りっぷり……。「私たちの肩は労働でよじれ 指は貧乏で節くれだっていたが そのまなざしはまっすぐで美しかったといわれよう」とその詩にあるが、炭鉱マンは家族のために懸命に生きていた。

 その三池炭鉱が閉山して2年余。やっと「歴史劇」にできるだけの歳月が流れたということなのか。そんな感慨に浸りながらも、「連帯」という忘れ物を届けられたような気分だ。今もリストラの嵐(あらし)が吹くが、「家族ぐるみ」という言葉は死語と化し、男たちは孤独な闘いを強いられている。社会はずいぶんと淡泊になった。【池田知隆】