1997年11月18日火曜日

〇血と骨(1997年11月18日)

 〇血と骨(1997年11月18日) 

 

 筑豊の記録作家、上野英信さんが亡くなってこの21日で10年を迎える。その後、産炭地の文化拠点、筑豊文庫を守っていた妻の晴子さんも今夏亡くなり、春には三井三池炭鉱が124年の歴史を閉じた。炭鉱の姿は日々遠のく。

 「あなたの故郷・三池で炭住(炭鉱住宅)の解体も進んでいますよ……」。晴子さんから数年前、手紙をもらい帰郷した。労働争議や事故など時代の荒波を炭鉱マンが「家族ぐるみ」で乗り越えた炭住は朽ちかかっていた。遠く中南米の移民となった炭鉱離職者たちの思いを上野さんはこう書いている。

 「いつもながら胸をうたれるのは、彼らがヤマ(炭鉱)を恋い慕う情念の深さである。生まれ故郷を恋うにもまして、その想(おも)いは哀(かな)しく熱い。彼らにとって、ヤマは単なる職場であったのではない。みずから血と骨をもって掘り築いた<まぼろしの国>であったのだ。その重みを思い知らされて、わたしは慟哭(どうこく)する」

 いま「大不況」の予兆をめぐって世は騒がしい。しかし、血と骨で築くような濃密な職場はいつしか少なくなり、「家族ぐるみ」という言葉も死語と化しつつある。社会は「淡泊」になっているのだろうか。

1997年10月8日水曜日

〇人間らしさ(1997年10月08日)

 〇人間らしさ(1997年10月08日) 

 

 「2020年にはコンピューターが将棋名人に勝ちます」。静岡大学講師(認知科学)、飯田弘之さんがこのほど国際日本文化研究センターで開かれた「将棋の戦略と日本文化」の共同研究会で、そんな研究報告を発表した。

 プロ五段(休場中)の飯田さんは、棋士初の国立大学教員で、自らの勝負経験をもとに人工知能を研究中。今年5月、チェス名人がコンピューターに敗れて以来、研究者の関心はチェスよりもはるかに複雑な将棋に移り、やがてプログラム・ソフトが名人位を獲得するのは研究者の常識、だそうだ。

 「プロ棋士は軒並み廃業かも」「新聞雑誌の将棋の問題はコンピューターで解け、成立しない。マスコミに与える影響はどうなのか」。出席者の間で議論が沸騰し、「コンピューターは日本文化を超えるのか」という声も。

 飯田さんはいう。「いまやサッカーもホットな研究テーマです。あらゆる人間行動をプログラムに入れたら……」。コンピューターがサッカーの勝負にどう絡むのか興味深いところだが、さて人間らしいプレーとはいったい何なのか。ともあれ、コンピューターが将棋名人に勝つ日までは生きて、その瞬間を見たいものだ。

 

1997年8月28日木曜日

〇裏と表(1997年08月28日)

 〇裏と表(1997年08月28日) 

 

 「新聞は日毎」。地球の裏側のブラジルで今夏、邦字新聞を読んでいて、そんな見出しに一瞬ギクリとした。太陽は北にあり、国民性などなんでも日本と反対という国だから、「毎日新聞」もひっくり返っているのか、とつい錯覚したのだが、それは「日伯毎日新聞」の単なる略称だった。

 「10歳でブラジルに移住してきたとき、学校のテストで正解欄に○をつけたはずなのに、どうして間違いなのか、不思議でなりませんでしたよ。ここでは正解欄には×印をつけるんです」。アマゾンを案内してくれたマナウス在住のガイド、木場孝一さん(49)は懐かしそうに体験談を語ってくれた。

 地球の反対側に新天地を求めたブラジル移民が始まって来年で90年になる。いま、日系人は120万人を超えたが、そのうち約23万人が日本に出稼ぎに来ている。「あちこちからわき出るように出稼ぎ希望者が現れ、兄も日本に帰ったまま」と木場さんは寂しそうだ。「でも、どこに行こうと、新しい土地で生活するのは厳しい」

 どこで生活していくのが正解なのか、だれにも分からない。裏と表は正反対のように見えながら、それぞれに正解があるのだから。

1997年7月22日火曜日

〇透明な顔(1997年07月22日)

 〇透明な顔(1997年07月22日) 


 一人の少年の顔写真の報道をめぐって日本の社会が揺れている。

ジャーナリストとして「透明な存在」という少年の実像に迫るのは当然だが、それをどう伝えるかは悩ましい問題だ。人間の顔についてこんな小話がある。

 「どんな人間の性格をもその顔から見てとれる」。そう自慢していた男が哲人、ソクラテスに会った。彼がソクラテスからも悪徳を読み取ったとき、周囲の者は一笑に付した。その悪徳のただの一つもソクラテスに認めることができた者はいなかったからだ。

 だが、ソクラテスだけは笑いはしなかった。そして言った。「自分は確かにそのようないろいろな悪徳を背負ってこの世に生まれた。しかし、理性の助けによってそれを免れたのだ」と。

 人間の内なる深淵(しんえん)。学生のころ読んだスイスの哲学者、マックス・ピカートは「戦慄(せんりつ)なしに一人の人間の顔を眺めることはできない。他人を眺めるためにじっくりと時間を費やすことは、人間なるものに対して敬意を表することなのだ」(「人間とその顔」)と書いていた。容疑の少年は社会的に「透明な顔」の存在だが、私たち自身も人間の顔の深遠さを見る眼力を失っているかもしれない。


1997年6月13日金曜日

〇環境食(1997年06月13日)

 〇環境食(1997年06月13日) 


 “ジャワ納豆”ともいわれるインドネシアの発酵大豆食品「テンペ」に関する国際会議が来月中旬にバリ島で開かれる。「まだ納豆に関心があれば、参加しませんか」と常磐大学教授、加藤清昭さんから誘われた。もう7年前になるが、納豆のルーツを追ってアジアを旅したことがあるからだ。

 テンペは、ハイビスカスなどの葉の裏にいるカビの一種で大豆を発酵させる庶民的な食品だ。ヤシ油で揚げると淡泊で、「大豆のカマンベールチーズ」のような味が懐かしい。

 さらに植物性タンパクとはいえ、ビタミンB12(抗悪性貧血因子)を含み、「肉に代わる副食として最適」と菜食主義者の関心は高い。テンペは病原性大腸菌O157の増殖を抑える抗菌作用を持つとか、緑黄色野菜プラス大豆食品が前立腺がんや乳がん、大腸がんの予防に有効、との報告もある。

 いまや欧米型肉食文明の代表「ハンバーガー」が世界を制覇しつつあるが、「地球環境と食の問題を考えると、大豆をまるごと食べる納豆が見直される。納豆は地球を救うのです」という加藤さん。

会議には行けないが、地球環境のために納豆を食べる“環境食”をしばらく続けよう。 

1997年5月27日火曜日

〇汗と塩(1997年05月07日)

 〇汗と塩(1997年05月07日) 


 「三井三池炭鉱の閉山の光景をこの目に焼き付けておきたい」。

そんな気持ちにかられて3月末、九州に帰郷した。かつて「総資本対総労働の闘い」を担い、最後には15人になっていた三池労組。

その集会で組合歌「炭掘る仲間」を口ずさみながら、なぜかアフリカの民話が脳裏に浮かんできた。

 ――アフリカの奥地に住むある部族は、塩がなくていつも困っていた。塩を得るには、周りの敵対する部族の間を抜けて海岸まで行かなくてはならない。そこであらかじめ何人かが殺されることを見越したうえで、多くの若者が出ていく。敵対する部族との戦いを経て、海にたどりついた何人かが、海水を身体から塩分が噴き出すくらいに飲んで、集落に走って戻る。仲間が倒れても、そうやって塩を持ち帰る……。

 生きることはそんな塩を運ぶような無償の行為で、汗の中に残された塩こそが人間集団の生存に欠かせない、とその民話はいっている。そして時代から追われゆく炭鉱マンの汗と塩の結晶こそ歴史に残したい、と思った。

 早咲きの桜と共に124年の炭鉱の歴史を終えた郷里ではいま新緑が萌えている。炭鉱マンも再出発に向けて新たな汗を流している。

1997年3月12日水曜日

〇光の粒(1997年03月12日)

 


〇光の粒(1997年03月12日) 


 「多くは申しません。送った本を読んでください…」。夜、「酒乱党」党首を自称している京都のMさんから珍しく電話があった。

どこかの酒場から酒の勢いを借りてのようだが、その声は真剣で、切実さが漂っていた。

 その本は北山喜久子著「光の粒になって―お母さんの遺言」(創栄出版刊、星雲社発売、1854円)。北山さんは1994年11月、みぞおちのあたりがピリピリするので病院で検査を受けると、大腸にがんがあり、肝臓に転移していた。病気とは全く無縁で働き続けてきただけに、まさに青天の霹靂。それから昨年2月に44歳で亡くなるまで書きつづった日記だ。

 2段組みで、420ページ。病院でのつきあい、染織の職場でのこと、自らたどってきた道、夫や3人の子への思いを語り、そのあふれんばかりの筆力に感嘆した。死に近づいて、死を真正面から見つめていると、あらゆるものが光って見えてくるというが、こうまで鮮明に見え、一気に描けるのか、と。

 かつて北山さんといっしょに部落解放運動を担ったMさんにはひときわ深く心に刻まれる記録だ。死にゆく人のまなざしは「光の粒」として生者の暮らしの姿を照らしだす。

1997年2月26日水曜日

〇律義(1997年02月26日)

 〇律義(1997年02月26日) 


 「マルセル!」と声をかけると、まず「はい、そうです」と返ってくる。インドネシアの日本語ガイド、マルセルさん(32)の、その「はい、そうです」には不思議な魅力がある。あなたと向き合っていますよ、との意味を含み、それから笑顔で懸命に説明を始める。

 黒い肌に縮れ毛の彼はフローレス島出身で、敬けんなカトリック信者だ。独習した日本語だけでなく、日本人の機微にも通じている。このほどマルク諸島の先住民族を訪ねた旅で1年ぶりに再会し、ますます人柄に魅せられた。

 インドネシアを約30回も訪れ、今回の案内役の桃山学院大学教授、沖浦和光さんに彼は私淑し、昨夏に生まれた最初の子に「オキウラ」と名付けた。沖浦さんがフランシスコ・ザビエルをめぐる東西交流史を研究中と知ってか、その子の洗礼名は「ザビエル」。かくて「ザビエル・オキウラ」がアジア交流の確かな芽として育っている。

 「はい、そうです」は単なる口ぐせです、と彼は照れる。だが、そこには相手と丁寧に向き合う律義さがある。そう感じるのは、その種の律義さが日本で薄れつつあるからかもしれない。マルセルさんと別れたばかりなのに、もう懐かしくなった。


1997年2月5日水曜日

〇遠い声(1997年02月05日)

 〇遠い声(1997年02月05日) 


 「やがてくる日に 歴史が正しく書かれる やがてくる日に 私たちは正しい道を進んだといわれよう……」          

 遠い記憶のやみの底から1編の詩が聞こえてきた。1960年9月、「総資本対総労働の闘い」といわれた三井三池争議が終結した際、労働組合のビラに書かれた詩だ。小学校6年生だったぼくに、衝突、流血、殺人と市街戦さながら目前で繰り広げられる争議の複雑さがわかるはずはない。ただそのフレーズだけが脳裏に刻まれていた。

 その三池炭鉱が来月末に閉山する。閉山交渉を伝える小さな記事を読むたびに、幻のように郷里の光景がよみがえる。炭住街の共同浴場で汗を流す時の笑顔、運動会の地域対抗リレーでの元気な走りっぷり……。「私たちの肩は労働でよじれ 指は貧乏で節くれだっていたが そのまなざしはまっすぐで美しかったといわれよう」とその詩にあるが、炭鉱マンは家族の暮らしのために懸命に生きていた。

 「民衆の闘いは、“水俣”だけじゃなか。三池の記録は少ないし、いっしょにまとめようか」。独り暮らしの母を亡くし、九州に帰郷していた友人にそう誘われ、まるで「忘れもの」を届けられたようだった。

1997年1月14日火曜日

〇第3の兵士(1997年01月14日)

 〇第3の兵士(1997年01月14日) 


 「ペルーで国際赤十字の仕事が注目されています」との手紙を添えて、大阪府元教育長で日赤参与、桝居孝さん(70)から本が届いた。「ボランティアからの出発」。人生折々の文章をまとめた本で、次のような一節があった。

 15年前の春、30年に及ぶ役人生活を終え、日赤大阪府支部事務局長になった。府庁の先輩に「そんな、みっともない」といわれ、世間的評価の低さを実感したが、明治生まれの母親は一番喜んだ――と。学生時代にセツルメント活動をし、児童文学に造詣の深い桝居さんには幸せなポストだった。

 原爆後の診療活動で「広島の恩人」ともいわれる国際赤十字のマルセル・ジュノー博士の墓碑銘に「第3の兵士」とある。第1、第2の兵士は敵、味方に分かれて戦うが、第3の兵士は人道のために戦うとの意味だ。日本でもかつて大正デモクラシーを背景に「少年赤十字団」があり、国際赤十字は太平洋戦争下の日本でも活動していた。

 70歳の書生として「出発」と題した本には誠実な人柄がそのまま刻まれている。照れ屋で、接待が苦手そうだった公務員時代の顔が浮かび、いま「第3の兵士」、そして「公」とはなにか、考えさせられた。