1994年3月31日木曜日

〇望郷(1994年3月31日)

 〇望郷(1994年3月31日)


 二十四年前のきょう三十一日、赤軍派の若者九人が日航機をハイジャックした。いわゆる「よど号」事件だ。東京郊外の、間借りしていた時代小説家の部屋を引き払うことになり、別れのあいさつしている最中、テレビのニュース速報が流れた。そのときの衝撃と光景はいまも鮮やかに浮かぶ。

 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に渡った彼らは「われわれは"あしたのジョー"である」と語っていた。血ヘドを吐くほどにたたきのめされながら、不屈に立ち上がっていく人気劇画の主人公と自らをダブらせていた。

 核の問題をめぐって緊迫の度が高まってきた朝鮮半島。今週の「サンデー毎日」には、"ジョー"の一人が"リング"にあがって「『来るなら来い』の空気は募っている」と現地の雰囲気を伝えている。「ハングリーな強国」といわれるその国を知るうえで彼らは日本向けの小さな窓になっている。

 その一方、"ジョー"の子は父の母国の大学への進学を希望し、法務省と支援グループの間で、入国資格をめぐる交渉が重ねられているそうだ。新しい世代の望郷。政治的言語が飛び交う中、ごく普通の暮らしを願う人たちの「心情」を垣間見る思いがした。

1994年3月17日木曜日

〇命の重さ(1994年3月17日)

 


〇命の重さ(1994年3月17日)


 「むなしい」ーいつも手にしてい「た大学ノートの表紙に赤のボールペンでそう書き残し、一人の校長が自ら命を絶った。一九八四年三月十日午後六時三十五分、徳島県の吉野川上流の渓谷、大歩危橋。日が沈み、一段と冷え込みだしたころ、橋の欄干を越えて、三十七㌶下の岩場に身を投げた。

 校長が勤めていた大阪府高槻市立小学校では、卒業証書の年号表記を西暦にするか元号にするかで、教職員とPTAの間に激しい意見の対立が続いていた。橋の上に残されたふろしきの中には卒業式の式辞の下書きもあった。

 十年前のきょう十七日に行われたその卒業式。卒業証書は「校長の遺志を尊重」し、元号表記になっていた。当時、高槻駐在の社会部記者だった私は、その死の周辺をできる限り追おうとしたが、翌十八日、グリコの社長が誘拐され、深夜に高槻市内の電話ボックスから「現金十億円と金一〇〇㎏」を要求する脅迫状が見つかった。

 「劇場犯罪」の端役として巻き込まれ、長く続いた緊張の日々。一昔前とはいえ、「昭和」の終わりに向かう時代の空気は重かった。連続、バラバラ、と殺人が相次ぐ昨今、空気も人の命も軽く、薄くなってきたのか。

〇雛祭と刀(1994年3月3日)

 


〇雛祭と刀(1994年3月3日)


 昭和十九年三月三日、宝塚新温泉(現・宝塚ファミリーランド)が開場される午前八時半、歌劇ファンの列は宝塚南口駅まで延々と続いていた。ちょうど五十年前の雛祭の日のことだ。

 第二次大戦が激烈を極め、三月一日に決戦非常措置令が出され、大都市にある十九の劇場は、向こう一年間、一斉閉鎖を命じられた。東京宝塚劇場は二日、初日を迎えるはずの花組公演から中止。宝塚大劇場も四日限りで幕を閉じることになった。

 最後の公演の演目は雪組「翼の決戦」(高木史朗作)。春日野八千代さんが軍刀を手にした戦闘機乗りとして登場。三日は、ファンの願いに応えて急きょ二回公演した、と歌劇団の記録にある。最終日も未明から若い観客が詰めかけ、警官が抜刀して整理にあたるという「不祥事」が起きたそうだ。

 「陸の竜宮」に押し寄せた時代の大波。だが、タカラヅカの世界は女性たちの間で脈々と受け継がれ、この四月、八十周年を迎える。男役第一号は第一回公演「ドンブラコ」の桃太郎。桃の中から男役が誕生し、桃の節句とまんざら関係がなくはない。雛祭の今日、少女たちの幸せを願いながら、平和のありがたさをかみしめたい。