〇惑い(1994年7月21日)
イタリアのR・バッジョがけったPKはゴールを外れ、W杯は終わった。その瞬間、「スポーツは、恋愛に似ている」と教えてくれた作家、虫明亜呂無さんの顔が浮かんだ。
ポールをける一瞬、足の甲に独特にヒネリとスナップを与え、スライドとスピードに変化をつける。そのときの、ほんのわずかな惑い。肉体と生理を通して、それまで積み重ねてきた人生が一挙に現れる。決勝初のPK戦では、強靭な精神力を誇る選手たちも重圧の中で、失敗を繰り返した。
スポーツは「瞬間、瞬間の積み重ね、つまり時間の流れの中で、体で自分の個性を表現している」という虫明さん。「源氏物語」の中の古歌「恋わびて夜な夜な惑うわが魂は なかなか身にも還らざりけり」をあげ、スポーツの魅力もまた「その惑いに惑う自分の情念と身体のドラマにある」と。
スピードとリズムと力強さ。強いチームには音楽があり、「野の舞踏」の世界を楽しませてくれたW杯。サッカーに熱中した十代のころのポールの感触が甦り、いまは亡き虫明さんの観戦記を読みたい、と思う。「ひとは、スポーツをとおして自分を知っていかねばならない」という文章を。