1994年7月21日木曜日

〇惑い(1994年7月21日)

 〇惑い(1994年7月21日)


 イタリアのR・バッジョがけったPKはゴールを外れ、W杯は終わった。その瞬間、「スポーツは、恋愛に似ている」と教えてくれた作家、虫明亜呂無さんの顔が浮かんだ。

 ポールをける一瞬、足の甲に独特にヒネリとスナップを与え、スライドとスピードに変化をつける。そのときの、ほんのわずかな惑い。肉体と生理を通して、それまで積み重ねてきた人生が一挙に現れる。決勝初のPK戦では、強靭な精神力を誇る選手たちも重圧の中で、失敗を繰り返した。

 スポーツは「瞬間、瞬間の積み重ね、つまり時間の流れの中で、体で自分の個性を表現している」という虫明さん。「源氏物語」の中の古歌「恋わびて夜な夜な惑うわが魂は なかなか身にも還らざりけり」をあげ、スポーツの魅力もまた「その惑いに惑う自分の情念と身体のドラマにある」と。

 スピードとリズムと力強さ。強いチームには音楽があり、「野の舞踏」の世界を楽しませてくれたW杯。サッカーに熱中した十代のころのポールの感触が甦り、いまは亡き虫明さんの観戦記を読みたい、と思う。「ひとは、スポーツをとおして自分を知っていかねばならない」という文章を。


1994年7月7日木曜日

〇落とし物(1994年7月7日)

 


〇落とし物(1994年7月7日)


 「瀬戸内の島をいっしょに歩きませんか」。桃山学院大学教授の沖浦和光さんに誘われて、梅雨明け後のカンカン照りの下、香川県沖の島の調査に同行した。明治の初め、漁業権をめぐって海辺の集落が焼き打ちにされたある差別事件の背景を探ろうというのだ。

 「私たちの先祖はどこからきたのか」「その事件のころ、十八歳だったおばあさんから聞いた」。集会場に集まった古老たちはにぎやかに語りだした。昔の話を語ろうにも子供たちの多くは島を去り、いない。まるで心の奥深くくすぶっていたものに火がついたようにいきいきとした話が続いた。

 古代から水軍が暗躍し、さまざまな権力闘争に巻き込まれてきた瀬戸内の島々。夫婦で船に乗り、年中、漂泊していた船上生活者たち。農業中心の日本の歴史から落とされた「海の民」の多彩な姿が目前に浮かんできた。

 「名前の通り私の先祖も瀬戸内の海賊」と誇らしげに語る沖浦さん。瀬戸内から東南アジアに広がる漂泊漁民の暮らしを追い、今夏もインドネシアを旅するそうだ。六十七歳とは思えないその軽やかな行動力と熱っぽい好奇心に接して、記者の初心を忘れてはいな

」か、と発奮させられた。